「人格障害の思う壷」


書くから読めなんて言えないし、書いたから見せたら読みたくなるし、だから俺の中のもう1人の自分は、お前が彼女を病みのぶちまけ先に利用したから、お前のこと嫌いになったんだ、ついに、そう、長い付き合いの中でたくさんたくさんこんな不安はあったけれど今、ついに、愛想尽かしてブロックしたんだって言ってくる。もっと工夫していれば、もっと誰にも迷惑をかけない場所で吐いていれば、もっと、いいや、誰にも迷惑をかけない場所で、お前が死んでいれば。

ただ俺は、長く、すっごく、仲良くしてくれた彼女が、急に全てをほっぽり出して、俺を嫌いになったなんて思わない。

落ち込んでいたって仕方がない。
俺が人を嫌いになりきれることなどないのだから、
あの人だってあの人だって俺のこと嫌いになりきれなかったのだから、彼女は尚更、彼女なりの思惑があったか、もしくは俺を信じて軽い気持ちだったに違いないのだ。






違いないのだ。










「現代の思う壺だ」と相方が口にしていたのを聞いて、なにか感慨を覚えた。彼が闘っているのが現代社会に巣食う巨大な憂鬱だとするならば、俺は何だろう。
現実の人々との繋がりと身体感覚の喪失にまつわる現代病の数々、過度の一般化、自己嫌悪、自己否定、不安、依存、不幸への安心感、嫉妬、見下し、…
態度として、負の感情を話すことで共感を得ようとすること、無意識のマウント、人の気持ちを考えられない、自分の気持ちもわからない、流されやすさ、状況への引きこもり、怠惰、…


BPDと、NPDを併発しているとずっと思っている。診断が本当に降りるかは知らないけれど、…
いや、前者に関しては降りたけれど、そんなに酷いものだろうかと考える。もっと些細な理由で、あるいはそうなるべくして、誰かをブロックしたり、ハブったり、自分のために利用したり、悪口を言ったり、暴言を吐いたり、騙したり、態度をがらっと変えたり、善意が人を壊したり。そういうことって沢山。無菌の温室の中から、声は聞こえないけれど、人々がそうしているのが見えた。

ただそんな私が作る、関係性の中で、そういうことをするのが、有り得ないこと、人でなしのすることとして扱われる。安寧を求めているはずの私や私に似た人々の中で、そういうことをするのが。

先輩が「こんなに心の素敵な人間久しぶりに見た」と言ってくれるくらいの、俺がそういうことをするからこそ。


だから……その乖離が病的で、
いっそ“人格障害”で。


それはほんとのほんとに奥まで辿れば、きっと乖離なんかじゃないとわかってはいるけれども、


だから、私は、そうだ、話を思い出した。
落ち込みたくはないのだ。それは正しくない。
ここで関係性の積み重ねよりも行為を覗きこんでしまうことが、俺に言わせれば、「人格障害の思う壷」なのだ。
それは落ち込まないことを主軸に生きる人々の太陽みたいな重い明るさの中のこととは違って、落ち込むことが基準にある俺が、もう少し上にいることに慣れたい蒙昧の霧の中のこと。どうせこの頭は一度にひとつのことしか信じられないのだから、
いいや、俺がぼんやり信じ込んでいた正しさなんてどこにも無かったのだから。


美味しいお酒でも飲みます。