優しさ



俺の脳、いや人の脳は一度にひとつのことしか考えられないから、傷ついた時には世界の終わりが見えてくるような、崩れそうな足場から動けずにうずくまるしかないし、ちょっと外に出てnoteでも書いてたら、ぜったいに裏切らない足元のコンクリートに対して愛着が湧いてきて、そんなことどうでもよくなったりする。「裏切りだ、」という声がした。何が裏切りなんだ?自分の声なのにわからない。俺は何かにつけ、自分の罪悪について考え続けることが贖罪だと信じているふしがある。理由とかは思い当たらないけど、まあ、ちょっと近い感情なら思い当たる。とっても寂しいのだ。人が、そばにいるのに、私の心が、荒れているのに、その人の心が無風であるその時が。響かぬ鉄のように、叩いても打っても私の気持ちをわかる気がない人と話している時が。俺は人を殴る夢をたまに見る。ひとつの例外もなく、殴る理由は相手に何かをわからせたかったから。いや、わかってほしかったから、の方が。母なのか、友なのか、とにかくその人は私が泣きながら訴えてもへらへらと笑ってわかろうとしないから、私はどうしようもなくて、本当にどうしようもなくて、どうやっても届かなくて、ただ無力で、絶望的な気持ちで、暴力という手段に出てしまったんだ。

わかって。わかってよ。察してなんて言わないから。話すから。話してるのに。訴えているのに。泣いているのに。力の限り感情をあらわにしているのに。へらへらと笑っている母の姿に、無力感と絶望感が襲う、どんなことをしてでも逃げたいような苦痛が近づいてくる。もっと感情に訴えかけるには、暴れてばかりではダメだと心の声が止めるのだけれど、冷静に対処なんてできない、ただ無力感が、自分という存在に閉じ込められるのが、誰もわかってくれないのが、怖くて暴れて、暴れて、暴れて、その人を殴る。

制御が効かず暴れだして人を殴るくらい恐れている他人の行為が、わかろうとしてくれないことだから、
自分がそれをやるなんてことも当然ありえない「裏切り」なわけで、だから俺はとにかく人のことをわかろうとしてきた。ちょっと違うかも。準備してきた。そしてこの心を捧げてきた。口約束も、きっと本気じゃないと思っても全部日記に書いた。一度仲良くなった人のことは、何年前の人でも覚えているようにした。できれば毎日思い出して、元気でいますようにと祈りを捧げようとした。なにかを訴える、わかってほしい人が私のもとを訪れたときに、いつだってどんな時だってその声に振り向けるように、その叫びに耳を貸せるように、せめて、せめて、
私だけは、誰も置いていかないように。

誰にも認められないのに、ただ使命感にかられて、自分の手の届くすべての人にこの身を投げ打たんとすること、苦しみを聞こうとすること、見ず知らずの人にも親切にしようとすること、毎日、毎日、昔親しかった人の存在に祈りを捧げることは、自分自身がそうされたかった、寂しさの反動に他ならなかった。1人になった時間に、私は独りではなく、他人の想い出にしがみついて時間を過ごす。
それは、祈りなんかじゃない。欲望の発散だ。




できるだけ、何事も正面から、受け止めて離さない。たとえ苦しくても、それは他人が俺に向けてくれた想い。だから苦しみも孤独を癒す。俺は他人を疎かにしていない。だから他人からも疎かにされない。
そんな幼子のような理論を必死に信じて、他人の存在にしがみついてきた。ささやかな指摘も、脳が自然と忘れてくれるまでずっと忘れられなかった。忘れることが罪悪のように思えた。その人の訴えを、俺が犯した罪を考え続けることが贖罪であり、自分の存在の意義だった。いいや、ことはもっと簡単で、人の想いを話半分に流して嫌われたくなかった。他人の言葉ひとつで、オセロのように真っ黒に変わっていく世界は悪夢のようだった。そう、俺は、悪意を見ていた。正面から受け止めていたんじゃない。嫌われたくなかったから、その言葉が含む最悪の可能性のことばっかり感じて、痛がって、痛がっているから許してくださいと、あなたに不快な思いをさせてしまった分、きちんとあなたの言葉で傷つくから許してくださいと、へこへこ心で服従していたのだ。



善意も、優しさも、裏を返せば寂しさと不安の汚い欲求だと、そういう話だ。だからたまに、寂しさを優しさや愛情に変換するのがうまくいかなくて、ストーカーって言われて気持ち悪がられる。

俺は、自分自身が好きではない。別にああしたからって他人を救えたり好かれたりしたかはわからないし、無数にちょっと好かれた積み重ねと同じくらい、数回嫌われた時の言葉は痛くなってしまった。俺自身をこんなに苦しめる、自分自身が俺は好きではない。



美味しいお酒でも飲みます。