インソムニア

インソムニアだ。


金縛りに遭った時は指先から。このまま再び眠りに落ちるか、頑張って目覚めるか、だけれど、このまま再び眠ろうとしたって悪夢に苛まれるに決まっている。私は睡眠の質が落ちても、一度起きることにした。
「この部屋には絶対に何かがいる。」
そう思えてならなかった。私は知っている、この思考が根拠のないものであると。だから対抗する、「この部屋には何もいない。」ただ、恐怖が私をとらえて離さない。根拠などない、ただ人間が原始的に持っている、暗闇への恐怖、のようなもの。普段は片隅にあるそれが巨大なものになって、私の脳は完全に恐怖の中に入ってしまっている。理屈じゃない、理屈で対抗できるものじゃない。心ががたがた震える。いいや、いつものやつだろ、普段俺は幽霊なんて信じていないだろ、新築のこの部屋に幽霊なんて出るはずないだろ、そうしっかりと考えを握りしめて対抗しても、恐怖は消えない。なかなか上手く言い表せない。どんなにまやかしだとわかっていても、どんなに理屈で、出現条件や、原理や、対処法がわかっていたとしても、今俺の周囲をうろつくこの黒い怖いもの達は、本物だ。恐怖は、本物だ。もしかしたら、精神的な病気持ちが、幻覚を見ている時は、こんな気持ちなのかもしれないと半ば本気で、思う。とにかく怖い。恐怖の沼に頭の先まで完全に浸かってしまって、抜け出せない。

体は、金縛りのようなものだ。視界に黒い影が走った。やっぱり何かいる。そんなはずはない。眠くて目もろくに開けられないのになにか見えるはずはない、勘違いだ、夢の一種だ、
でも、怖い。胸の奥が凍りついていくような感覚は止まらない。

この目が開いているかどうかもわからない。視界でちらちらと動いているように見える腕や指先の影が、夢なのか現実なのかわからない。動かしているように思える感覚も、夢なのか現実なのかわからない。ただ、体の全てが現実に入った瞬間、それがちゃんとわかる、だけだ。
それに向けて私は起きる。全く動かない体の、指先から力を入れて、動いた。腕、胸、頭と目覚めさせていく。動いたか?いや、軽い。幻覚か?ネットで習った、そして何度も自分でやってきた、この金縛りのようなものへの対処法。上手く力が入れば、しびれるような感覚とともに、体に重さが蘇る。

眠剤のせいか。久しぶりに飲んだから。やっぱり飲むべきじゃなかった。私はもう鬱じゃないから眠剤なんていらないんだ。いや、眠剤がなくちゃきちんと眠れなくて、眠剤を飲んでも悪夢に苛まれるのなら、私にはもう救いはどこにもないのではないか。そんな思考が一瞬で、芋づるのように躊躇いなく過ぎる。なにか、どうにか、現実世界との繋がりを、怖くなくなるものを、この周りにいる黒いもの達を追い払ってくれるものをと、……相方、このまま目覚め続けること、ゲーム、国会中継、など……瞬時にいろいろ考えたが、結局スマホで音楽をかけた。眠気が限界だった。ただ、「また眠れないまま目覚められなくて体が動かなかったらどうしよう」という気持ちで、1時間30分もの長さにタイマーをセットした。夏で掛け布団を掛けていないから、不安感が増幅したのだろう。シャツを脱いで下着姿になり、冬用の羽毛布団にくるまった。ほんの少し大丈夫になった。

怖くない現実感を、幽霊みたいな非現実な恐怖を追い払ってくれるものを、現実的で拍子抜けするものを、スマホの光を、耳に馴染んだ旋律を、頭で掴み続けながら、もう一度眠ろうとしたけれど、眠りに近づくにつれてその音楽は音楽じゃなくなっていった。お気に入りの音楽なのに、知っている曲なのに、頭の中で流れている曲と現実の音が、まるで一致しない。眠い耳が、脳が捉える音は断続的で、それはただの途切れ途切れの不協和音になっていって、余計に怖かった。それが、辛かった。けれど、そのまま眠りに落ちることができた。



起きてスマホを開いたら、01:31:01のタイマーの画面で、我ながら、夢じゃなかったんだと思う。それは確かに自分が抗った痕跡で、不思議な、やや感慨深い気持ちになる。そう、あの後は、よく眠れた。




美味しいお酒でも飲みます。