1973年冬

我が家は四條畷のアパートから、藤井寺市の市営住宅に引っ越した。詳細な年月は記憶には無い。ただうっすらと、2階建ての古い木造アパートから、3階建てのしっかりとした建物に移ったと認識していただけだった。それでも幼いながら、なんだか立派な暮らしぶりを肌で感じた事をおぼろ気に思い出す。

その住宅の同じ棟に、クリクリの大きな瞳の女の子が住んでいた。いつも少し高い位置に二つ結びをしてて可愛い子だった。みっちゃん(仮称)というその子が、僕が明確に覚えている人生で初めての友達だった。まだ弟が生まれる前でいつも一人で遊んでいた僕は、住宅前の小さな公園の砂場で、ブランコで、ジャングルジムで、彼女が住む部屋の窓を眺めながら、初めてできた友達のみっちゃんが現れるのを、ワクワクしながら待ってたものだ。藤井寺の市営住宅から引っ越すまでの何年かは、彼女だけが友達だったと思う。他にいたのかもしれないけど、僕の記憶には、いつも笑っているみっちゃんしか残っていない。あれから約半世紀。みっちゃんは今、どんな素敵な女性になっているのだろう。まぁ、お互い知らないほうが幸せかもしれないよね・・・(汗)

ある日の昼下がり、鍋で餅をグツグツ茹でて、とろけた餅を、きなこと砂糖にまぶして食べる『安倍川餅』を母が作ってくれた。余程うれしくて興奮したのか、僕は立ち上がってウホウホと歓喜の舞を披露しようとしたところ、手をついたコタツの天板がずれていたようで、僕の体重が乗った途端に天板がひっくり返って、熱湯の中に浮かぶトロトロの餅ごと左腕に盛大にぶちまけた。
僕は当時のことはあんまり覚えていない。恐怖ややけどの痛みやなんかはまったく記憶に無い。だけど、自分の腕に負ったやけどの事よりも、僕の叫び声で振り返った母の驚愕した眼や、僕を風呂場まで抱えて走り、冷たい流水を左腕にかけながら「大丈夫!大丈夫!」っと、必死に幼い僕にむかって呪文のように繰り返す母の声や、僕が横たわる昔ながらの四角い乳母車を懸命に押して病院へ走る母の激しい息遣いなんかは、わりと鮮明に覚えている。

今でも僕の左腕には、薄っすらと皮膚がただれた跡が残っている。このやけどから半世紀近くが経ち、母が他界して三十年を過ぎた今でもこの傷を見ると、ふと当時の記憶が蘇る。でもそれは、怖い、熱い、痛いっていう負の記憶なんかではない。なんていうか、我が子を想う無償の愛であり、圧倒的な優しさであり、魂の繋がりみたいなものだろう。

そんな慈悲深い愛情を存分に受けながら育ったにもかかわらず、僕は大人の階段を少しづつ踏み外してゆくことになるのはずっと後の話だ。『親の心子知らず』とはよく言ったものだ。

なにはともあれ、初めての友達のみっちゃんと楽しく幼少期を藤井寺市の市営住宅で過ごした僕は、幼稚園の入学のタイミングに合わせて大阪北部にある箕面市のマンモス団地へと引っ越すことになる。

この頃から、やっと記憶の糸のずっと先に、断片的ながら明確な思い出が残り始める。って言っても、忘れている事柄のほうが圧倒的に多い上に、日々忘却のかなたへと消え去ってゆく古い記憶。このタイミングで自分の半生を振り返るって行為もまんざら無駄ではないのかもね。



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