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拉麺ポテチ都知事22「フジロックと下世話」

KOHH「CBD(Remix) feat. Red Eye, D.O」が不意にリリースされていて笑った。これまじで合法なのか。どうやらプロモーションとして発表した映像の様である。

これを私が支持するかどうかはさておき、Red Eyeによるセカンドヴァースには“一体この案件儲かるの、金だけでやってない音楽を”という一節がある。典型的なラインではあるが、これをフジロック開催の波紋のなかで思い出した。

文春のネット記事は痛烈に<「反知性」「反政府」「反権力」による祭典>だと書いていて、大いに笑った。私は開催に賛成だが「フジロック」関係者の最終的な言い分は「批判するべきは主催者や我々アーティストではなく、補償なき自粛を要求する国だ」ということらしい。つまり「自分たちがフェスをやらざるを得ないのは、関係者一同が経済的に困窮してしまうからであって、それが満ちていれば自粛できるのだ」という論理である。

それならば、音楽や文化は不要不急だと言っている様なものだ。残念ながら、有事に際しては音楽をやっている場合ではないのかもしれない。加えて確かに補償は必要であり、補償なき自粛に私も強く反対する。しかし、たとえ補償されたとしても音楽はやる、パラリンピックを開催するのだからフジロックもやる、私にとってはそれだけのことだった。つまり“金だけでやってない音楽を”なのだ。

Awich「口に出して」も笑った。ところで、続けて読んでくれている人がいるのかどうかは定かではないが、この散文では(笑)やw系の記号を使わないというルールを自分に課している。それらを使わずにどこまで書けるか実験したいのである。

さてこの楽曲は思わせぶりなタイトルだが、リリック自体はヘイターに向けられた彼女からのアンサーだ。だが普通に聴いていると、非常に性的な内容を歌っている様に錯覚してくる。そして、これがクリティカルだと思わされた。

別に下ネタが良いと言っているのではない。ポリティカル・コレクトなものをありがたがる雰囲気に対し、LGBTQやパンセクシャルという意味合いでない、下ネタをトピックにするというのはひとつの打開になり得るのでは、ということだ。しかも下品さを過剰に押し出さずして、結果的にうまく日本のメジャー・フィールドでアンチ・ポリコレを歌っているのがすごい。

今の社会の雰囲気では迂闊に政治的に不当なことは話せない。だがオルタナティヴな言語空間を作るにはどうしたら良いか、多様性と言論の自由を保持するためにはどうしたらいいのかを時々は考えている。

私がやっていたプロジェクトの楽曲・3(tora)「ZipperGirls」もこれに近いことを歌っていた。優秀なメンバー揃いのプロジェクトで、また彼らと楽曲を作りたいと願っている。そういえばメンバーのひとり、石田玄紀くんはKan Sano氏のバンドメンバーとして「フジロック」に出ていたなあ。

今聴けば冗長で、私の歌が下手なのは承知である。でも概要欄のステイトメントを読むと、言いたいことは色あせていないと感じるし、気に入っている。君のジッパーを開き、口に出してほしい。それがヘイトであったとしてもいい。差別でもいいと思う。受け止め、お互いに考え、社会を変えていけばいいじゃないか。

私は昔からこう思っているが、上手くいかないことばかりだ。こういう時に限って(笑)を連発しながら、ごまかしたいという気持ちになる。だが真剣に思っているのだ。

今、私が話を聞きたいのは学生闘争の獅子だったパイセン方だ。彼らはどの様に怒りを鎮めて、バブル時代をどの様に過ごしていたのだろうか。そして70年代の様な、今の雰囲気を乗り越えて、我々はもう一度80年代の様な季節を迎えるのだろうか。そんなことも時々考えている。

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