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拉麺ポテチ都知事39「俺なら彼らの眼を塞ぐ」

先日、簡単な眼の手術をした。

半年ほど左目にものもらいがあり、放ったらかしにしていたところ、ここ数日でみるみる大きくなってしまったのだ。とにかく文字通り目障りなので穴を開けてもらうことにした次第である。

物心ついてから始めて手術室に入ったと思う。小さい頃に行ったシンガポールで肺炎になった私は、現地の病院で氷風呂に入れられるなど謎の荒療治を受けつつ、生死を彷徨ったそうだ。その時に看護師から貰ったアクセサリーを父は母と離婚してからも身に着けていたのも覚えている(父はあっけなく死んだ)。

その時に手術をした覚えがないので、というか全ての覚えがないが、とにかく人生初の手術だったはずである。無機質な手術室に入り、椅子に座ると、処置は目の裏から膿を取るということで、瞼を裏返して器具で止めることから始まった。

そこで麻酔。もちろんこれも初だ。これさえすれば痛くないらしいが、痛え。まじで痛すぎる。麻酔でこれだけ痛いのだから、瞼に穴を開けるなんて耐えられない。

既に体はガチガチに固くなっていた。ステージに立って演奏したり歌ったり、拙く役者として演技をする分には、ほぼ緊張しないのに、まるで小学生の時にやったピアノの発表会だ。祖父に「お辞儀の仕方が格好悪い」とダメ出しを食らったのだけは覚えている。

片側の腕が異様に下がってしまいバランスが悪かったのは確かだが、やはり振る舞いは大事なのだなと子どもながらに悟った。多分そういう環境にいたから、純粋な演奏家になれずに、エンタテイン寄りの音楽家になってしまったのだと思う。

それにしても、いつになったら手術が始まるのだろう。心配になってきたので「もう始まりますか?」と聞いた。すると「すいません、もう始まってました」と医者が言う。え、まじか。それ言ってよ。ていうか麻酔やべえ。本当に痛くない、まじで神。そんなことで10分ほどの手術というか、処置は痛みもなく終わった。

眼帯をした自分を鏡で見ると少しだけ私の中二心が騒ぐ。前に書いたことがあるが、私は中二病に罹患したことがある。それは11歳のこと。よって年齢が追いつくまでの3年間、私にとって中二病は大人文化だった。エヴァの旧劇場版を観に行った時も自分より年長のオタク諸氏が大人文化の担い手としてカッコよく見えた。

そして「眼を隠す」という行為を考えた時に思い出すのはゲーム「ときめきメモリアル」や、国産アドベンチャーゲームの主人公たちである。プレイヤーが物語に移入するためには、主人公に憑依しなければならないが、それらのゲームは主役の眼を垂れた前髪で隠すことによって、キャラのアイデンティティを外し、プレイヤーが自己を投影できた。これはシンプルかつ革命的なことではなかったか。

その仮説をもとに私が陰謀を張り巡らせたら、マスクよりもVRゴーグルを民に義務化するだろう。それによって彼らは勝手に自己喪失し、口を塞ぐまでとなく面倒くさい自己主張をしなくなるはずだからである。それからインターフェイスで操るとか、それでなくても勝手に好きなキャラと恋をさせておけばいい。私もアニメやゲームのキャラに惚れてしまったことが度々あるが恋は盲目、眼を奪われたら一巻の終わりだ。

さて一連の眼の処置を受けて、興味深かったことは麻酔が切れた後の痛みである。まじで神と思った後に来る、あの鈍痛。人生も似ている。若さという麻酔が切れた時に来る鈍い痛み、それを切り抜けたところで何かを見つけるのだと思う。

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