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拉麺ポテチ都知事32「あり得た戦前の続き」

ロシアのウクライナに対する軍事侵攻が起きてから当欄を全く更新していなかった。不覚にも当問題が起きた頃、昨年の年間ベスト11曲をプレイリストにまとめて記事にしていて「これ、やっていても意味あんのかな」と考えてしまい、Noteの執筆がレイドバックしている。

私は個人の仕事として、意味のないことはやりたくない。今何をしたらよいかといつも考えている。山梨で企画をやっていた時もそうだったし、創造として自分にできることを思い描く。不格好になる時も多いが、それをやらないと自分がやる必要がなくなってしまう。国のコロナ対策やワクチン推しも意味がないから好きではない。

安易に言いたくはないが、私も戦争反対である。情勢については、ぜひヘヴニーズが毎週日曜日に発信している番組を観てほしい。私も毎回その場で学び、自分なりに他の情報も交えて考えているところだ。

ヴィトゲンシュタインが言うように「語りえぬことは語らない」べきだから、私からこの戦争について語れることは、ほとんどない。しかしひとつだけ感じることとして言いたいのは、ロシアは先制攻撃からの誤算と世界の敵となった点で、ウクライナは本土防衛という点でWW2の日本を連想させることである。

つまり両国とも日本の幻影だからして、我々日本人はどちらの側にも想いを馳せることはできるはずだ。そして世界がウクライナを支援すればするほど、片側の幻影(=本土防衛した日本人や軍人)の名誉が回復する。良い悪いというジャッジを超えて、これにより「国や家族のために命を賭ける」行為がバカバカしい、戦争美化だという言説は力を失うだろう。

としたら戦前の再考は必ず来る。前項で書いた俗的なネオバブルなどと並走して、時代懐古の保守的な空気になったら、それはそれで興味深いものがある。戦争によって止まってしまった、あり得たかもしれない日本の1940年代の続きが始まりそうだ。新たな戦争の雰囲気とともに。

大学で日本の近代文学を学んでいた時にも「近代の再考が来る」と思った。結果は何とも言えないが、夏目漱石の「月が綺麗ですね」という言葉が本来的な意味ではないロマンティックなものとして浸透するに至っている。

彼は個人主義について「全員が個性的になったら、相互理解のできない社会になる」と書いた。多様性が極まった社会を彼はその様に予見していたのである。そんな時代が来るのを待たず、ルール無視の破壊によって日本はリセットされ、新たにやり直すこととなった。

インターネット時代に幻の1940年に突入したら、どうなるだろう。実際に正反対の意味にも取れ、ありとあらゆる解釈が可能な情報があふれ、人々は分かりあえなくなりかけている。そこにバブルやナショナリズム、平等を唄う共産主義がそれぞれ幻想を伴って混ざっていく未来が来ると思えて仕方ない。

この新たな潮流に音楽家としての私が入る余地はあるかは分からない。でも、とにかく私は意味のないことはやりたくない。それを探すのである。

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