禁酒法の時代

勇ましいタイトルだが、「緊急事態宣言で飲食店での酒の提供禁止だと!日本もついに禁酒法の時代か!許さん」などといいたいわけではない。酒が外でおおっぴらに飲めない今、禁酒法、禁酒法って言っている人がいるけれども、結局、米国の禁酒法ってどんなんだったの?ということでまとめてみた。と、書くと、「おまえ、そんなキャラだったっけ?飲み歩けないあまりに暇すぎておかしくなったのか」と突っ込まれそうだが、人間、素面の時間が長いと、いろいろ悩みがつきないのは否定できない。実際、41歳にして初めて白髪が生え、これまで無縁だった腰痛に苦しんでいる。

年末くらいに、政治家の会食と酒癖の自著(新書)を出す予定だが、これがなかなか進まない。国内外の歴史に名を残す政治家が会食をどのように戦略的に利用し、時に飲みすぎていかに醜態をさらしたか、そして政治家の力量と酒癖は何の関係もおそらくないという内容(たぶん)なのだが、「年末くらい」と自ら刊行時期を曖昧に記すくらい、進捗が芳しくない。正直、材料もそろってはいるし書き進めてはいたのだが、ここ二ヶ月ほど手をつけていない。他の仕事の関係もあるが、やる気が全く起きない。「酒を外で飲まなければ、やる気がわき出て一気に書けるはずさ」と呑気に構えていたが、待てど暮らせどやる気は起きない。何もしなければコロナは収まらないし、原稿も進まない。神風は吹かない。もう、飲むしかない。違うか。さすがにヤバいな、手をつけなくてはと、自分を追い込むためにここに宣言したというわけだ。

とはいえ、ここに何文字書こうが、本の原稿は1文字も進まない。途中で本の内容を方向転換したので、実はあまり使わないだろうメモを再構成しただけなのだ。ちゃんと書けよ、俺!そもそも、そんなことバラすな、ばか!やはり、少しおかしくなったのかもしれない。とにもかくにも、いつまで続くかわからないがお付き合いください。


1920年1月17日、米国の酒好きにとっては悪夢としか思えない法律が施行された。禁酒法だ。英国の首相であるチャーチルが「人類に対する侮辱」と語った法律だ。なぜ、この世紀の実験のような法律が施行されたかを少し振り返ってみよう。

酒に対する抗議は1870年代にすでにあった。酒は中世ヨーロッパでは健康に良いとされていた。アメリカにもその文化が根付いていて、その頃は酒は体に悪いとの概念はまだなかったが、飲み過ぎて、近隣住民に迷惑をかけたり、泥酔して帰宅して家庭内暴力をふるう者も少なくなかった。酒の害が可視化されてきたことで、一部の女性が「酒を禁止しろと」立ち上がったのだ。この運動は地方部を中心に31州にもひろまり、1000件以上の居酒屋が閉店した。ところが、抗議運動は都市部に迫るにつれ一気に減速する。居酒屋の前で抗議したところで、「あいつら、酒やめろとかいってるんだけど、頭おかしいのかな。ちょとヤバイ奴らだよね」という反応が大半で、逆に愛飲家たちの罵声を浴び、いつのまにか運動は霧消。閉店した居酒屋もいつのまにか再開した。

その後、しばらく禁酒運動は大きなうねりにはならなかったが1800年代の終わりに、資産家であるウェイン・B・ホイラーの禁酒運動が様相を一変させる。彼は禁酒運動の専業の宣伝員を雇いビラを配るのみならず、新聞社に賄賂を送り、「黒人は酒を飲むと暴れるから酒を禁止しろ」という今から考えるとトンデモな論調の記事をのせるなどした。

きわめつけは政治家へのキャンペーンだ。献金をちらつかせ禁酒派の議員を着実に増やしていった。こうした議員達は「自分ひとりが禁酒を訴えたところで、禁酒法なんて成立しないし。まあいいか」と考えていたが、あれよあれよと禁酒派が選挙で勝利をあげ続け、禁酒法の賛成派が反対派を上回るまでに時間はかからなかた。そう、自分ひとりくらいと考えると、とんでもないことが起きるわかりやすい例だろう。

1915年には州レベルでは11州が禁酒法を取り入れた。ここから、アメリカ全土に広がるには大きな2つの出来事があった。

まずは、所得税の導入だ。その頃、酒税が税収入に約7割を占めていた。そのため、愛飲家達は「酒を禁止したら国家財政が破綻するぞ」と強気でいたわけだが、1913年に所得税が禁酒派の後押しもあり、制度化されたことで、酒が必要の論拠が揺らぎ始めた。

そして、決定打となったのが第一次世界大戦への参戦だ。1914年に火蓋が切られていたが、アメリカは1917年に連合国側に加わる形で参戦する。当然、最大の敵は同盟国側のドイツ。アメリカ国内で禁酒派に強力に反対していたのは当然、酒造メーカーだが、そのドンは 「バドワイザー」の生みの親であるアドルファス・ブッシュであった。彼を筆頭にドイツ系移民が多かったのだ。当然、敵国の連中がつくる飲み物など飲むべきではないという気運が高まる。
 
こうした時代背景もあり、あれよあれよと禁酒法が成立してしまったわけだが、禁酒法の実態はおそらく多くの人のイメージとは違う。表だって酒が飲めないため、ギャング達が酒をつくり、路地裏の会員制のバーで人目を盗むように酒を楽しんだ光景を想像する人が多いかもしれないが、実態は全く異なる。

みんな、普通に飲んでいたのだ。


えっ、それ禁酒じゃないじゃんと突っ込みたくなるだろうが、禁酒法はザル法だったのだ。突っ込みどころが満載でどこから突っ込んでいいのかわからない。ザルどころの話ではない、編み目がないザルだ。もはやザルでない。

本当かよと思う人もいるだろうからいかにザルだったかを見ていこう。

まず、所持や飲むことは禁じられていない。あくまでも製造、販売、輸送を禁じただけであった。だから、家で飲めば問題なかったし、自宅でなくても会員制のクラブや宗教団体ではわいわいと飲むことも可能だった。

もちろん、販売は法が施行されると禁止されるので、人々は施行前にある行為に走った。買いだめだ。施行の数週間前からは酒屋に行列ができ、数年分を買いだめる者も少なくなかった。

とはいえ、製造が禁止されていてはいつか酒が尽きると思えるがここにも抜け道があった。農家に余った農作物でワインなどの製造が1年に760リットルまで許された。1日に1リットル飲んで365リットルであるから、当然、横流しする者も出てきたし、違法としりながら、密造する個人もあらわれた。結果的にブドウの需要が爆発的に伸びた。

「やがて、市場からプレッシャーを受けた葡萄価格は、一トンあたり八二ドル(八万八〇〇〇円)から三七五ドル(四〇万六〇〇〇円)に跳ね上がり、南米からの葡萄輸入量も四ヶ月で八一六五キロから二二万六〇〇〇キロに上った。ほとんどの葡萄は冷蔵列車に積まれたあと、全国の大都市に送られたが、禁酒法違反の疑いで、途中で輸送を止めようとした鉄道当局には、口止め料として多額の賄賂が支払われた」(『酒が語るアメリカ裏面史』グレン・サリバン、洋泉社)。

どう考えても、余った農作物ではなく、積極的に酒を造っているとしか思えない。全くもって酒を禁じていない。自由すぎるぞアメリカ。

ただ、法が施行される前に買いだめするにしても、こうしたワインを手に入れるにしても当然、懐が豊かでなければ手が出ない。需給の関係だから、皆がほしがれば価格は上がる。貧乏人は常に蚊帳の外なのだが、彼らだって酒を飲みたい。酒を飲んで暴れたい。

恐ろしいことに、禁酒法は彼らにも酒を手に入れる抜け道を用意していた。どんだけ酒飲み思いなんだ。いや、ここまでくると、なんで禁酒法があるんだといいたくなる。

彼らは薬として酒を手に入れた。酒は健康に良いとする考え方は1910年代には否定されて、禁酒法施行時には酒が薬として用いられることはなくなっていた。ところが、いつの時代も商売に長けた者はいる。「薬という大義名分で酒を与えれば儲かるじゃん」と考える医者があらわれ、酒を薬として提供する権利も求め始める。ものすごい手のひら返しであるが、これが認められ、ガンや腹痛、ぜんそくなどに酒を投薬することが認められる。薬としての酒といっているが、バーボンである。酒好きはお腹が痛いと処方箋をもらい、せっせとバーボンを飲みまくった。本当に腹が痛くなって薬が必要になりそうだが。

それでも、処方箋を貰うには金がかかる。薬としても酒を手に入れられない最下層の酒好きはどうしたか。工業用アルコールに手を伸ばしたのだ。

工業用アルコールは文字面から想像できるように体に良いわけがない。いや、悪い。日本でも戦中戦後に物資不足でメチルアルコールに手を出し、失明したり、命を落としたりした者も少なくない。作家の武田麟太朗もメチルの飲み過ぎで死んだ。

アメリカが凄いのは工業用アルコールから異物を取り除く業者が存在したことだ。当然、違法なのだが、彼らは当局に賄賂を渡し、全米各地に流通させた。とはいえ、時代が時代。技術もそこまで素晴らしくはない。禁酒法下で工業用アルコールを飲んだことで命を落とした人は約1万人との試算もある。

余談だが、禁酒法下ではもちろんバーは禁じられていた。そのため、もぐりのバーがあちらこちらにあった。そこで出された酒は禁酒法施行当初は工業アルコールが少なくなかった。異物は取り除かれているが、苦みはぬぐえない。どうしたか。人間が考えることは昔も今も変わらない。大きく進歩していないのだ。くさかったり、苦かったりすればそれを隠そうと香味を足す。これがカクテル文化の隆盛につながったのは有名な話だろう。

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