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なぜ人類は有人宇宙飛行に挑むのか?

「なぜ人類は宇宙を目指すのか」という問いは人類普遍なものである一方で,現在の宇宙に対する思想は宇宙開発黎明期に培われたアメリカ流の考え方(例えば,宇宙飛行士=Hero)に縛られてしまっているのではないかと感じます.それは,宇宙開発における主要なステークホルダーである科学者・技術者が「答えのない問い・確信のない答え」に対する議論を積極的に行って来なかったことが原因ではないかと思います.宇宙科学・工学の専門家にとっても,「なぜ人類は宇宙を目指すのか」という哲学に関しては素人です.一方で,専門外の人間にとっても『宇宙』は分からないことが多すぎて(…と思い込んでしまっていて),なかなか考えられてこなかった現在があるのではないかと予想します.宇宙開発黎明期から,インターネットの発達や高度な経済成長を受けて,人々は世界中を簡単に旅できるようになりました.そういう世界の中で,いまを生きる僕たちが「なぜ人類は宇宙を目指すのか」という観念をアップデートしなければいけないのではないかと考えています.私自身も宇宙工学の専門家ですが,「なぜ人類は宇宙を目指すのか」という哲学に関しては素人ですが,この場であえて考えを深めてみたいと思います.

第一回目は「なぜ人類は有人宇宙飛行(ロボット・機械を送り込むのではなく,生身の人間を送り込むこと)に挑むのか?」について考えたいと思います.

生身の人間が宇宙へ行くという興奮

有人宇宙飛行は多くの人から脚光を浴びる一方で,宇宙科学・工学の専門家にとっては『金食い虫』なので賛成派・反対派が大きく分かれています.ある宇宙科学ミッションを達成するための,1つのスタイルとして有人宇宙飛行を見なした場合,有人宇宙はコストパフォーマンスが悪いです.宇宙船は自動制御の方が上手く操縦できますし,サンプルリターンもロボットで十分上手くやれます.ですので,敢えて有人宇宙というスタイルを選びたい科学者は少ないです.

ここで有人宇宙の是非に関する議論を拗らせているのは『お金』です.もしお金を気にしなくて良いのであれば,有人宇宙飛行の議論は幾分変わると思います.その意味ではプライベートのお金を使って進められる有人宇宙飛行ビジネスに関しては反対派が大きく減ると予想します.近年,SpaceX社のCrew DragonやVirgin GalacticのSpaceShipTwoが実用化されてきたことによって,このように有人宇宙飛行の是非に関する価値観が変わってくると思います.

さて,もう少し哲学的な話に踏み込みたいと思います.仮にお金の問題がなくなったとして,我々人類はなぜ有人宇宙飛行に挑むのでしょうか?多くの人間にとっては,決して自分自身という個体が宇宙に行けるという話ではありません.他人が宇宙に行くことに無関心な人もいるかもしれません.また,同じ「自分ではない存在」なのであれば,人ではなくロボットが宇宙に行けば良いと思う人もいるかもしれません.ですが,それでも一定数の人は「人が宇宙に行くこと」に価値を見出しています.なぜ自分ではない人間が宇宙に行くことに価値を見出すのか・・・それは『共感』が鍵となっていると思います.

ロボットが宇宙に行った場合,(少なくとも今のロボットは)何を見て,何を感じたか,熱く語ってくれることはありません.生身の人間が宇宙に行った場合,その本人が何を見て,何を感じたのか・・・(それを支えた人間が何を思ったのか・・・)それを感情的に語ることで,宇宙に行っていない人間も共感することができ,その興奮を生々しく感じることができると思います.そして,その興奮は『(命懸けの)挑戦』であることで,より高まるのだと思います.何となくスポーツの興奮と似たものがあるかもしれません.ミッションを支えた人間が感情的に語ることに共感することも含めると,もしかすると有人探査・無人探査は本質的な違いはないのかもしれません(以下はNASAのCuriosity Rover着陸の瞬間).

また近しい存在の人間同士の方が強く共感できるでしょう.名前も顔も見たこともない誰かが宇宙に行くことより,自分の家族・親友が宇宙に行く方が強く共感できると思います.ここで,ふと感じた疑問ですが・・・「名前も顔も見たこともない誰かが宇宙に行く」のと「自分が愛するペットが宇宙に行く」のとでは,どちらの方が強く共感できるのでしょうか・・・もしかすると”人”であることは,それほど重要な要素ではないのかもしれません.

フロンティアとしての有人宇宙飛行

有人宇宙飛行の醍醐味のもう一つは,未踏の地に人類が足跡を残すというフロンティアとしての有人宇宙飛行でしょう.ユーリイ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行,ニール・アームストロングによる人類初の月面着陸はその典型例だと思います.こうしたフロンティアとしての有人宇宙飛行は「人類はついにここまで来たか!」という人類の発展・進歩(そして,希望)の象徴です.そして,”宇宙飛行士”というのは,このフロンティアを駆け抜ける存在として,ブランディングされてきているように思います.僕自身が幼い頃,宇宙飛行士という職業に憧れたように・・・「将来,宇宙飛行士になりたい!」と言っている人の多くは,世界で10,000,000番目に宇宙に行ければ良いと思っているわけではなく,「世界(あるいは日本?)で初めて宇宙で○○をした人間」になりたいのではないかと思います.

有人宇宙飛行ビジネスが広がり,宇宙飛行が当たり前になってくると,この価値観が徐々に消えていくでしょう.実際に今となっては,地球周辺の宇宙はもはやフロンティアではないと言えるかもしれません.当然,より遠い宇宙(例えば,火星探査)へとフロンティアはシフトしていくので,技術的な課題を乗り越えられる限り”フロンティアとしての有人宇宙飛行”としての有人宇宙飛行は拡大していくでしょう.ただし,遠い宇宙に行くほど技術的難易度は益々増していくため,”フロンティアとしての有人宇宙飛行”という価値観は徐々に薄れてくるでしょう.

海外旅行と宇宙旅行の類似点・相違点

フロンティアとしての有人宇宙飛行という価値観が徐々に消えてくると,海外旅行と宇宙旅行の境界線が曖昧になってくるでしょう.江戸時代に日本人が海外へ滞在することはフロンティアでしたが,令和の現在は多くの日本人は(望めば)生涯で一度は海外へ行くことができるでしょう.これまでは人が宇宙へ行くことはフロンティアでしたが,有人宇宙旅行ビジネスが始まるこれからの時代,海外旅行と宇宙旅行の違いはなんでしょうか.多くの点で類似していると思うので,ここでは相違点について考えたいと思います.

うまず海外旅行の場合は行った先は誰かの国であり,その国に住む人々が居て,彼らが作る文化(美味しい料理・現地の建造物)があります.宇宙旅行は,今のところこうした文化がありません.その意味では,国立公園(National Park),南極,オーロラ観測等の自然と類似する点が多いかもしれません.

他には環境の違い・・・特に,重力が違う(地球周回の国際宇宙ステーションではほとんど無重力,月は地球の1/6の重力)ことが海外旅行との大きな違いでしょう.ジャンプ等の身体を動かす遊びをすると,地球上ではできないような経験ができるかもしれません.

また,地球という存在を客観的に観られるのも宇宙ならではでしょう.カールセーガンが言うように,地球という存在を自分の目で客観的に見ることで,日常生活がちっぽけに思えるかもしれません.僕自身が初めて海外に行き,日本という存在を客観的に見て,価値観が変わったように・・・宇宙旅行は,その最上級の形として,僕たちの価値観に影響を与えるかもしれません.

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