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2,3年前と今の 「家をなくす」 ときの心境のちがい

家、住むにまつわる色んな実験をこれまで試してきたけれど、ここにきて、また家をなくす選択を取ろうとしている。


戦略的に・・・というよりも、ほとんど全て結果的に、そういう選択をした!みたいなことが多い。時には、モノもミニマムにして、旅をしたり、ヒッチハイクで旅をしたり、拠点を探す旅をしたり、シェアハウスに短期に居ながら、各地を巡っていったり、会いたい人に会いに行く生活をしたり、ご縁のあった人のお家に居させてもらったり・・・。最新は、住むと旅(巡礼)の融合型、拠点を持ち、その土地の文化や人と触れ合いながらも、各地に活動しにいったり。



やっと、自分のしっくり形を見つけたというか。「旅だけ」と「住むだけ」が分断されてしまっていることがとても苦しかった。その場も人も大好きなんだけど、住む形で関わることは苦しい・・佇むことで輝く自分と旅することで輝く自分を知っているので、どうにかならないものかと。

今年の下半期ぐらいから、受け入れてくれる人や呼んでくれる人たちのおかげで、定期的に各地に赴き、関わりながら、その場所に居ることができ始めた。


そんな、求めていたライフスタイルを送り始めて数ヶ月・・・ふと違和感を感じ始めている自分がいた。

住むも暮らすも土着も旅するも、あるけど、
「ない」。
京都南丹に着地しながら、旅する?巡礼する?各地に活動しに行くという半々のライフスタイルに3ヶ月ほどしましたが、もはや「居るところに居るだけ」「行くところに行くだけ」なんだと思いました。家が無くとも、着地するし、土着するし、家があっても、巡礼もする。そしてそれは、結果的にそうなるのだと。概念の方程式は合ってないようなもの。どうとでもできる。
もはや時間はあるけど、なくなってきてることも感じていて。要は、その瞬間に、自分の命が最大値になる選択をし続けるだけなんだと。
実家がなくなることもあり、物質的に拠点を持つ必要があると思って、着地しましたが、そこに固定化、縛り、制限をかけている自分がいたように思います。世の中の「それ」になんだかんだ盲目的に、従順になっていた自分がいました。
いわゆる「家」の概念を改めてまた外します。
さらに軽やかに、さらに根強く。
ライフスタイルが、既存の『住む』システムにいよいよ相容れなくなってしまってます!

家賃を毎月京都の拠点に払ってるんですが、月に半分や下手したら10日くらいしか居てないのに、バカみたいに思えてきて(笑)

もう月契約とかそういうんじゃないんだよね。日計算というか、なんなら家や部屋余ってる人や場が、結構居そうだし、ありそうなので、週に何日とかでも、貸してくれたり、御布施してください〜〜

服やらなんなりとあったり、物を置かしてもらう倉庫や部屋があるのも助かるなぁ~
 

各地や京都の色んなところに赴いたり、余白巡礼したり、人類や地球、身の回りの大切ないのち、願いや夢のために動いていて、そのパフォーマンスをさらにガガッと上げている今ですが、この家の仕組みや住む仕組みによって、ちょっとサクサクと動けてない部分もあって。

軽やか、かつ地域に根付くは両立できると思うのです。居るところに居るので。

各地に、受け入れてくれる方々や対話仲間やファミリーたち、巡礼者を迎え入れてくれる皆さんや場が増えているので、そんな未来も近いかも?と思ったり。最近こんな話を各方面で共有し合うことが増えてきました〜

どんどん仲間と家族の感覚を思い出して、がっちりと持っている色んな意味での『所有』や『我』の感覚を解いていく活動でもあるのかもなぁ。

(Facebookの自分の投稿より)


ぶっちゃけ、この違和感に、本当は気づいていたんだと思う。”今の住むシステム”に対する「なんか違うんだよなあ」を持っていたのだ。

こんなこと思っちゃいけないのかもしれないと思いつつ、出しておくと


「余っている家や部屋がある人たくさんいるのに、家を持つ必要ってあるんだろうか」

「分断されている世界、個になりすぎてる世界への違和感。あるものを生かしたいし、皆んなで生きたい。皆んな家族なんだということを信じてやまないし、それを体現すること、実感し続けることが、自分なんだと思っている」

「家ルールの限界。月契約への違和感。既存の2拠点やアドレスホッパーのための仕組みもなんか違う」

「願っている世界が、この仕組みの中には、存在しない。だからこの中にい続けても、違和感しか感じないし、自分に嘘を付いてる。これを突破して、さらに自分を全力で生きる必要がある。人間(の豊かさ)を探求する、既存の仕組みへの問題提起、それをした時に起こる波紋、何より自分が何を感じるのかを感じてみたい。それを実験したいし、なんとなくそれが役目なきがする。役目を果たしたい。覚悟を決める上でも、その状況を自ら作り出して、どうなるかを確かめないと。そうしないと、いつまで経ってもグダグダいく」


3年前、2年前と、これまで何度か家を手放したことはあった。だから今回自分が手放すことに怯えていることは意外だった。慣れているんじゃないかって。そもそも慣れることではないのかもしれないのだけれど(笑)

何が違うんだろうか・・・仮説をあげてみる。


ひとつは、慣れ親しんだ家が無くなること。両親の住んでるところはあるが、実質的な意味で、それが無くなる。数年前は、手放しつつも、最終の拠り所や帰るところという認識があったのかもしれない。

それに伴い、自分の服やモノ、生活用品、自転車などを置く場所が無くなるということもある。

ふたつめは、そろそろお金も尽きそうということ。実は家や住むと同じく、お金についても、ずっと考えてきたことがあり、これをどうにか突破したいというか、社会実験をしていこうと思っている。

みっつめは、やっぱり何回やっても単純にこわいということ(笑)不確定で、偶発的要素いっぱいな、未知なことだから。あたりまえです。

物や家やお金があるから、安定と安心が生まれる。でもそれがいき過ぎると、一人や家族だけで生きられてしまう状況が生まれてしまう。だからあえて、物を無くすことで、人との関係を生まざるを得ない経験をしているのかもしれません。



このリスク?を追っても、次なる探求したい先やテーマがそこにあるし、それをするように、導かれているふうにも思えていて、お膳立てが揃いだしてもいる気がしている。

自分の活動やビジョンを、みんなの活動に、オープンリソースとして、開いていきたいし、みんなの活動も、自分の活動だし、その意識がガッ!と強くなっている今、拠点を持ったからといって、そこに縛りやとらわれを作ってるのは違うなと。結果として、居を構えたり、住むことになるのはいいが、思考や目的が先行して、それを期待した上で、行動しちゃうのはいかがなものかと。

2年前に、身一つで、拠点を探そうというざっくりな理由だけで、なにも決めずに、赴いたときも、3年前に、全く縁のない九州になんとなく行ったのも、そのあと、導かれるように、出会いがあったり、大切なテーマに触れたり、時には住んだりしたのも、決めていなかったからこそ、生まれたこと。なにかをする中で、パーツが集まり、どんどんカタチが見えていって、それが起こる。

そんな経験を改めて今思い返しています。



皆んなが居ないと、生きていけない状況を作る!!

これをすることが、探求することが、この状況に自分の身を置くことが、手っ取り早いきがしています(笑)

どうか、さらにさらに、皆さんとの関わりが必然的になって来るかと思います。

今後ともよろしくお願いします😌✨🙏

ありがたく受けとらせていただきます〜!