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牛肉を愛した偉人たち ⑱・アーネスト・ヘミングウェイ

 初めて英語の小説を読んだのは高校一年の頃で、Ernest Hemingwayの『The Old Man and the Sea』。もちろんいきなり原書を読んだのではなく、福田恆存つねありの『老人と海』(新潮文庫)が面白かったので、チャレンジしてみた。当然のことながら一ページに多くの(いや、おびただしい数の)知らない単語が出てくるので、研究社の英和辞典を引きまくった。特にこの物語はタイトルのとおり海の上の出来事がほとんどなので、海事の専門用語が半端なく出てくるし、舞台がキューバなのでスペイン語も出てくる。何とか最後まで読み切ったが、小説を味わうというのにはほど遠かった。しかし、福田訳は孤高な老漁師サンチャゴと近くに住む少年との交流が簡潔な文体のなかにも緊迫した濃密な筆致で描かれていて、間違いなく後期の最高傑作であろう。(とはいってもヘミングウェイの真価はやっぱり一連の短編小説群にある)。
 また、映画『老人と海』(1958年)も佳作で、同年のキネマ旬報の外国映画部門のベスト・テン第3位にランクされた。
 
『ライオンを夢見る』
 ヘミングウェイはどういう人物だったのかと言うと、矢作俊彦の『ライオンを夢見る』(東京書籍)でその足跡をたどってみることにしよう。
 
  要するにそれは、パリを愛し、モンパルナスのカフェを世界一有名にし
 た作家であり、闘牛を愛し、銃を愛し、スペイン内戦に挺身した作家、海
 を愛し、メキシコ湾流を愛し、自らのヨットでそこに蹂躙するナチのU
 ボートと戦った作家、ノルマンディ上陸作戦に参加し、ド・ゴールより先
 にパリを「解放」してしまった作家、キューバの少年に野球を教え、友人
 のためにサーカスのステージで熊と戦い、ライフル銃による腹切りを演
 じ、エヴァ・ガードナーと裸で泳ぎ、英軍爆撃機を操り、友人の情婦を偲
 んで立ったまま四十五分間でドライマティーニを十一杯呑んだ作家、―つ
 まり作品とは無縁なところで、最も名高い作家なのだ。
  
 若きヘミングウェイは22歳の12月、新婚の妻とともにパリに移住する。セーヌ左岸のアパートメントに住み着き執筆を開始するが、翌年12月にリヨン駅で妻が目を離したすきにヘミングウェイの描きためた草稿入りのスーツケースを盗まれる事件があった。
 意気消沈するヘミングウェイは実はこの事件がきっかけで文体の改革に努め、独自の世界を構築していく。
 
 ヘミングウェイが愛した牛肉料理にランプ肉のステーキがある。ランプrumpは英和辞典の第1義によると(鳥・動物の)の臀部でんぶ;《通例おどけて》(人の)尻。第2義に(牛肉の)尻肉、ランプとある。
 松岡大悟著、『焼肉のことばかり考えている人が考えていること』(扶桑社文庫)によると、
 
  業界用語ではランプ:サーロイン(背中)とモモ肉をつなぐ、腰からお
 尻にかけての肉。近くにあるイチボという部位と総称してランイチと呼ぶ
 場合もある。あまり霜降りが入らず赤身が多いが、柔らかく刺身にも向い
 ているため、焼肉屋ではユッケに使われることも多い。焼く場合も、柔ら
 かさを第一に堪能したいためレア気味を推奨する。
 
 ヘミングウェイはおそらくパリ時代にランプ肉の旨さに遭遇したと思われる。しかし、まだ本一冊出していない無名のヘミングウェイは貧窮していた。その辺の事情を『ヘミングウェイ全短編集1』高見浩訳(新潮文庫)「解説パリのヘミングウェイ」からひろってみる。
 
  美術館を出た彼は、空腹を覚えつつ、静かな小路、フェルー通りに足を
 向ける。やや遠回りになるのだが、そこからサン・シェルピス広場を経て
 オデオン通りに入るルートが、彼は好きなのだ。そのルートだと、あまり
 レストランや食料品店に出くわすこともない。すこしでもお金を浮かすた
 め、きょうも昼食は抜かすつもりなので、胃袋を刺激するような道は通り
 たくないのである。
 (中略)あら、また痩(や)せたんじゃないの、ヘミングウェイ、ちゃんと
 食べている? お昼はもうすませたの?
  店主のシルヴィア・ビーチが声をかけてくる。彼女には頭が上がらな
 い。パリに移住して以来、この書店にはどんなに世話になったことか。
 
 朝型人間の素顔
 ヘミングウェイはアメリカの文芸誌『パリ・レヴュー』のインタビューのなかで、早朝に仕事をすることについてこのように語っている。
 
  毎朝、夜が明けたらできるだけ早く書きはじめるようにしている。だれ
 にも邪魔されないし、最初は涼しかったり寒かったりするが、仕事に取り
 かかって書いているうちにあたたかくなってくる。まずは前に書いた部分
 を読む。いつも次がどうなるかわかっているところで書くのをやめるか
 ら、そこから続きが書ける。そして、まだ元気が残っていて、次がどうな
 るかわかっているところまで書いてやめる。そのあと、がんばって生きの
 びて、翌日になったらまた書きはじめる。朝6時から始めて、そう、正午
 くらいまで、もっと早く終わるときもある。”

 ヘミングウェイの執筆ルーティンのなかで特徴的なのは、彼が自分の日々の仕事量を正確に記録していた点と、椅子を使わずに立って執筆していた点である。(傍点は筆者)
『パリ・レヴュー』のインタビューには、ヘミングウェイが日々、胸の高さほどある本棚の上にタイプライターを乗せ、それに向かって執筆をしていたという記録と、毎日どこまで書き進めたかを大きな表に記していたという記録が残っている。
 1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞。同年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。以降、これまでの売りであった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。
 晩年は、事故の後遺症による躁鬱など精神的な病気に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていった。1961年7月2日の早朝、散弾銃による自殺を遂げた(当初は銃の手入れの際に起きた暴発による事故死と報じられたが、後に遺書が発見されたため、自殺と断定された)。
 『ライオンを夢見る』の冒頭「1 キューバ」から引用する。
 
  ガルシア・マルケスは「キューバには二人のヘミングウェイがいた」と
 書いている。一人は世間によく知られた常に加速する時代の寵児ヘミング
 ウェイ。もう一人、絶えず書くことを真摯に求め続けたアルチザンとして
 の『秘密のヘミングウェイ』が。
  (中略)キューバはカストロの革命軍によって解放され、ヘミングウェ
 イはこの地を去った。一年後、アメリカのキューバ敵視政策が始まったこ
 ろこの地に一時、戻った小説家は新聞記者のインタヴューに答え、スペイ
 ン語で言った。「われわれは勝つ。われわれキューバ人は勝利する」
  そして英語で付け加えた。“I’m not Yankee, you know?”
 そして二度と戻らなかった。一年半後アイダホ州ケチャムの新居で自ら命
 を絶った。
  その知らせに打ちひしがれたコヒマルの猟師達は、その方が友人は喜ぶ
 にちがいないと言って大いに酒を飲んだ。そして、スクリューを持ち寄っ
 て溶かし、彫刻家に頼んで銅像を港に建てた。
 
 もう一つの『老人と海』
 『老人と海』にはもう一つの映画がある。ジャン・ユンカーマン監督が、与那国に住む82歳の漁師を2年以上にわたり追いかけたドキュメンタリー『老人と海 ディレクターズ・カット版』(2010年)がそれである。昔ながらのサバニという小舟での漁にこだわり、巨大カジキとの格闘に生涯を掛けた糸数繁“おじい”の勇姿を描く。
 与那国はなんとキューバのハバナと緯度がほぼ同じ位置にあり、さらに黒潮とメキシコ湾流は流量が多く、流速も速い世界の二大海流であり、この共通点に監督が目をつけたのだ。
 カジキのシーズンは4月から10月。撮影の年は14年振りの不漁で、その年ついにカジキは掛からなかった。撮影隊はやむなく出直すことになったが、2年目も撮影のプレッシャーからか一向に釣れる気配さえない。体力的にも金銭的にも苦しく予算さえ組めない状況が続いたが、糸数さんがカジキを釣り上げるまでは撮影を続けることに決めていた。……
 ああ、無情にもここで紙幅が尽きました。後は各自TSUTAYAでフォローして下さい。

初出:『肉牛ジャーナル』2024年5月号
 
 

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