見出し画像

牛肉を愛した偉人たち ⑥・ジョアキーノ・ロッシーニ

 『料理王国』という月刊誌がある。1994年の創刊以来一貫して文化としての「食」を見つめ、料理人が真に求める情報をいち早く伝えることをコンセプトにコンテンツを作り続けてきている。『料理王国』の2016年の12月号は特集が「牛肉の一部始終」で斯界の名人の火入れ、その極意を伝えている。この中でトップシェフが語る【牛肉料理の履歴書】で吉野たてる氏(*当時レストラン タテルヨシノ銀座パートナーシェフ)が取り上げられている。
  吉野氏は1952年、鹿児島県生まれ。1997年パリ8区に念願の【STELLA MARIS】をオープン。2006年から閉店前年の2012年までミシュランの一つ星を獲得する。同レストランは素材の持つ味わいを引き出す「テロワ(大地)の料理」を追及しており、現地でも予約がとりにくいレストランとして賞賛されていた。ジビエ料理を手がけるレストランの最高の賞といわれる「リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル」を受賞するなど、フランス国内でも以前から高い評価を得ていた。
 記事の冒頭で「フレンチは、牛肉をどうとらえているのか?」というテーマで吉野氏は自身、牛肉をあまり使わない主義と明かす。
   
 「フレンチでも昔から牛肉料理はありました。でもガストロノミー的な高級料理店では牛肉を使いませんし、私もフランスではほとんど牛肉料理を出しませんでした。フランスでおいしい牛肉を食べようと思ったら、町の大衆食堂でステーキ、が一番といっていいかもしれない。ただ焼くだけでは、フランス料理とはいえないからです。ウサギ肉や羊肉、鴨肉、部位でいえばリー・ド・ヴォー(胸腺)、ロニョン・ド・ヴォー(腎臓)を料理として仕立てるのが、高級フレンチ。……(中略)」
 「日本では、霜降り肉など、サシの入った牛肉がもてはやされますが、世界的には珍しい肉。こうした肉をソース重視のフランス料理で使うとなると、サシの脂がソースと喧嘩してしまう。そういった牛肉を使うなら、多少熟成が必要でしょうし、できれば赤身がいい。シャロレー牛のフィレ肉であれば、自分の料理技術で、サシの代わりになるような旨みを出すことができます」
 吉野氏は本場フランスの料理人も驚くようなイマジネーションで数々の逸品を生み出してきた。牛肉に重きを置かないとはいうものの、これまで大切にしてきた牛肉料理があるという。
 
 「それは〝牛フィレ肉のロッシーニ風〟です。『ウィリアム・テル序曲』で有名な音楽家ジョアキーノ・ロッシーニの名が由来の料理ですが、美食家として知られる彼にふさわしいフォアグラやトリュフを組み合わせた贅沢な一品です」
 
 それでは〝牛フィレ肉のロッシーニ風〟とはどういうものだろうか?今回はそれを追ってみよう。
 ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(1792~1868年)はイタリアのアドリア海に面したペーザロの音楽一家に生まれた。父ジュゼッペは食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母アンナはパン屋の娘で歌手であった。生涯に『セビリアの理髪師』、『アルジェのイタリア女』など39のオペラを作曲し、人生半ばの37歳で『ウィリアム・テル』を最後にオペラ界から引退する。
 *実はわたしも沖縄県庁を退職後、芸域?を拡げるために一時、食肉衛生検査所でと畜検査員をやっていた。
 ロッシーニはクラシック音楽史上、音楽だけで資産家になった唯一の作曲家といわれている。当時、パリのイタリア座の劇場監督として年二万フラン(今の日本円で約三千六百万円)。名誉職でさらに年二万フラン、さらに楽譜出版と作品再演からの収入があった。そうした背景と両親の出自の影響はロッシーニに美食家としての一面を発揮させる。
 フランスでは食通や(知的、芸術的な)通のことをgourmetと言うが、最近日本でもグルメとともにガストロノミー(gastronomie)という言葉がよく使われだした。手元の『プログレッシブ仏和辞典』(小学館)によると、「美食術[学]、料理法」という定義がのっている。つまり、日本の美食家という範疇を超え、料理法にも精通した人を指している概念のようだ。「ガストロノミー」という言葉は、古代ギリシャ語の「ガストロス(消化器)」と、「ノモス(学問)」が語源とされ、17世紀前半の詩に初めて登場する。
 この伝からいえば、ロッシーニこそまさにガストロノミーの人であった。実は引退を早めたのも、トリュフを探すために豚の飼育に専念するためだとまことしやかに伝えられている。元々美酒美食家であったのだが、引退後は自ら厨房に立ち、新しいレシピを考案し、パリ市内でレストランを経営するという「食の改革者」でもあった。日本でガストロノミーに属するのはさしずめ北大路魯山人(1983~1959年)あたりからではないだろうか。魯山人は美食家はあらゆる意味で自立していなくてはならず、創意工夫ができる真の自由人でなくてはならないと言っている。
 当時の料理書から類推して〇〇のロッシーニ風と称されるレシピは46もあったといわれている。この中でも一番有名なのがTournedos rossini ~牛フィレ肉のロッシーニ風~。
 伝統的な本来の作り方は以下のとおり。
まずは牛フィレ肉の中心部を3cmほどの厚さにカットし、表面は強火で、中心部は明るいピンク色、血が滴るくらいのレアの状態に焼き上げる。この焼き加減を専門用語では「セニョン」(Saignon)と呼んでいる。
 焼きあがった牛ヒレ肉は休ませながら適温で提供できる状態で保温しておく。これとは別に、やはり厚めにカットしたフォアグラをソテーする。ソースは「ペリグー」または「ペリグルディーヌ」と呼ばれるものを用意する。これはフォンドヴォーがベースの濃厚なソースに甘口のマデイラ・ワインで風味を加え、粗くカットしたトリュフを加えた芳醇なソース。付け合せにはジャガ芋を使って、グラタン仕立てや薄くスライスしたソテーを添える。
実はこの〝牛フィレ肉のロッシーニ風〟、わたしは以前パリで食べたことがある。それは2002年の中央畜産会の事業で地方の畜産会職員、県の担当者らと一緒にドイツ、イギリス、フランスの欧州研修に行った時である。最後に食べたパリのレストランで供されたのが、今にして思えば牛フィレ肉のロッシーニ風だったように思われる?!
 
 ある日、リヒャルト・ワーグナーがロッシーニの自宅を訪問した時のことである。ワーグナーはオペラ音楽についての話題を熱心に語っていたが、その間、ロッシーニは「ちょっと失礼」と言って部屋から出て行き、数分後に戻ってくるという行為を何度もくり返した。ワーグナーが不思議に思ってその理由を訊ねると、ロッシーニはちょうど鹿の肉を焼いていたところで、彼は肉の焼け具合を確かめるために何度も部屋から中座したからだという。
 1789年から1795年にかけて行われたフランス革命は、貴族たちに抱えられていた料理人が職を失い、レストランで大衆に食を提供するきっかけになったといわれている。これが世紀の美食文化の発展へとつながっていく。その同時代を生きたロッシーニは後年「大人になったら豚肉屋になるつもりだったのに、間違えて作曲家になってしまった」と言ったとされるが、疾風怒濤のその人生は76歳でやっと眠りについた。
 
                初出:『肉牛ジャーナル』2023年5月号
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?