② 博士の正常な愛情
夜のハイウェイをホンダシビックでドライブの途上、巨万の富をゲットした科学者がいる。助手席でまどろむ恋人を傍らに考案したアイデアによって。
キャリー・マリスの『マリス博士の奇想天外な人生』福岡伸一訳(早川書房)は、自由闊達な幼少時の環境が、創造的人生を形成するという好見本を示してくれる快著だ。マリスは一九九三年にPCRというDNAの増幅方法を開発した功績でノーベル化学賞を受賞した。
DNAは四種類の塩基が連なる長大な二重らせん構造。95℃の溶液中では、ほどけて一本鎖になる。そこに標的DNAとポジ・ネガ関係にあるプライマーという20個前後の塩基を一組加えて、60℃に急冷するとプライマーは相補的なDNAと結合する。次に72℃で結合部分にDNA合成酵素を加えるとDNAが1個コピーされる。1サイクルが約3分。30サイクルの3時間後には指数関数的にDNAが十億倍に連鎖的に増幅される。
本紙24ページが約30万文字。情報をDNAに例え、30万文字のDNAの中から拙文900字を病原遺伝子とみなすと、「夜の・・・ドライブ」、「ねすまきでが・・・、あゃじ」がプライマー。これをDNA増幅装置にかけると、検索されその間の文章が増幅される。読者は数時間後、数十億とコピーされた駄文の洪水を読む羽目になる。
近年PCRほど汎用されている化学的発見はないだろう。病原体の検出、遺伝病の診断、親子鑑定、法医学の個人識別、性別判定など枚挙にいとまがない。横田めぐみさんの遺骨の鑑定も高感度のnested法が使われた。コシヒカリ鑑別キットも市販され、いずれアグーと他品種との鑑別も可能となるだろう。巷間の居酒屋にはその偽物も出回っていると聞く。胸に一物ある店主は、貴兄がつまみのサンプル収集を申し出ると、勘定をチャラにしてくれるかも知れない。
ノーベル賞に先立ち、日本国際賞を受賞したマリスに発見の経緯を訊いた皇后陛下が「今日一緒に来ているのがその方ですね」と尋ねた。「いや、別人です」と博士が照れると、皇后はソフィストケートされたジョークで祝福した。
「じゃあ、もう一つ大発見ができますね」
2008・1・30 沖縄タイムス
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