見出し画像

牛肉を愛した偉人たち ⑰・黒澤明

 黒澤明と言えば、まず『羅生門』を挙げなければならない。1951年、第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、翌年第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞した。ヴェネツィアで上映されたのは8月23日。おりしも席上英国の元首相W・チャーチルも避暑の途次この会に現れ、激賞したとのことである。これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめることになった。
 黒澤明は1910年(明治43年)に現在の東京都品川区の東大井で中学校職員の4男4女の末っ子として生まれた。182cmの長躯ちょうく、白いピケ帽でサングラスがトレードマークになっている。
 
 喰いしんぼう
『羅生門』から遺作『まあだだよ』までの記録係として携わった野上照代著『完本 天気待ち』(草思社文庫)から、黒澤明の喰いしんぼうぶりを案内します。
 
  黒澤さんは、喰いしんぼうである。
  黒澤組の製作係がロケの時に最も気を使うのは食事だ。贅沢なものが好
 きなのではない。ロケ中の昼めしは握りめしと豚汁が基本である。
 なにしろ、第一作の『姿三四郎』(一九四三年)の時から、あの寒風吹き
 荒れるすすきヶ原の決闘ロケで、豚汁を何杯お代わりしたことか
 とよく話してくれた。
  我々も、御殿場の吹きさらしの原っぱで伝統の握りめしと豚汁をむさ
 ぼったものだ。
  夏の暑い時は、撮影現場に、カキ氷の屋台まで用意してくれた。
 黒澤さんがスタッフの食事まで、ウルサイからである。
 食べ物に鈍感なヤツは、いい監督になれない、と極言する。
 『トラ・トラ・トラ!』に最初のうちついていた助監督が、昼はいつも素
 うどんしか食べなかったら、そんな奴に映画は分からん、と言われたそう
 だ。
  大体、肉食人種である。
 それも、牛のステーキが大好物だったから、家計もたまらなかっただろ
 う。
  関西風の懐石料理などは、
 「気取りやがって、ちょこ、ちょこっと並べるだろ。大嫌いだ」とくる。
  フランス料理の凝ったのも苦手だ。
  素材の身元がハッキリしないのが気に入らない、というのだ。
 
 ステーキの上にうなぎ
 黒澤明監督は不朽の大作『七人の侍』(1954年)について「ステーキの上にうなぎのかば焼きを乗せ、カレーをぶち込んだような、観客がもう勘弁、腹いっぱいという映画を作ろうと思った」と語っている。  
 日頃の口癖が「うまいもののわからないやつは想像力に欠ける」。「おいしいものを食べながら機嫌が悪くなるやつなんていないよ」。「役者やスタッフには食べたいだけ食べさせて飲みたいだけ飲ませろ。 いい気持ちで撮影してロケが一日早く終わればメシ代なんてすぐ浮く」。……
 わたしは映画本を百冊以上持っているはずだが、『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』土屋嘉男著(新潮文庫、絶版)ほど監督への愛情に満ち、逸話が横溢した痛快無比な本を知らない。
 山梨県の大菩薩峠の登山口(旧ななさと村)で生まれた俳優は、黒澤邸に居候いそうろうになるまで住んでいたのはニワトリ小屋だった。周囲から人間らしいところに住むように言われていたが、土屋自身は「最高の埴生はにゅうの宿だった」と述懐している。
 土屋は『七人の侍』で監督に気に入られて抜擢され、『赤ひげ』(1965年)まで9本に出演している。本の一編「豚汁、こと始め」を覗いてみることにしよう。
 
  黒澤さんは、驚く程の肉好きであった。朝からステーキをペロリだっ 
 た。私も無類の肉好きなので、この点でも私は幸せ者であった。お互い、
 肉好きと言っても、そんなおとなしい言い方は私達には当てはまらないか
 も知れない。要するに、肉食動物という部類に属するかも知れない。
 「僕は以前、動物園でライオンが肉を食べている  
 ところを見たけど、あまり旨(うま)そうに食べるから、羨(うらや)ましく 
 なっちゃって。ついつい出来ることなら檻(おり)に入って横取りしたかっ
 たですよ」
 「おまえさんが、横取りするところを、望遠カメラ五台を使って撮ったら
 面白いだろうね」
 「タイトルは『肉好き』ですか。でも、ライオンは凄く怒るでしょうね」
 「そりゃそうだよ。猛獣の肉の食い方は素晴らしいよ。あれはやっぱり本
 職だよ」
 「いつか僕は誕生日に、一人で焼肉屋に入ってユッケ(生肉)を食べてい
 たら、犬が店に入って来て、僕のそばを、わざとゆっくり通るんですよ。
 その時、僕はなんだか『うーっ』と、低くうなり声を立てたくな
 りましたよ。僕でさえそうだから、ライオンはもっと怒りますよね」
 「当たり前だよ。しまいにはおまえさんも食われちゃうよ。そこをカメラ
 でねらいたいよ」
 「最期の僕に一言セリフを下さいよ」
 「そうだね、『俺だって食いたい!』だね」
 
 (中略)食い物の話はいつまでも尽きない。
 「俺たちはやっぱりいろいろ言っても人間だから、飯はこんな風にだべり
 ながら、ゆっくり時間をかけて食べるのが、最高の御馳走と言えるね」
 「でも人間だから、肉だけはせめて最上等がいいですね」
 「そうだよ。アメリカ人は可哀想だよ」
 「でも先生ねえ、僕はひょっこりアメリカで、間違いじゃないかと思える
 程、肉の旨い店を見つけて、どうしてこんな店がアメリカに、と思いまし
 たよ。連れの男が、ここのはめっぽう旨いよ、と 言ったけれど、どうせ
 クツ底だと思っていたんですよね。連れの男はスモールサイズを注文した
 けど、僕はいつものようにキングサイズにしました。
  しばらくして大きなステーキが来たので、『ああ、それ僕の方だ』と
 言ったら、ウエイターが、『これはスモールサイズだ』と言ったから驚い
 ちゃって、これがスモールならキングはどんな大きさかと待っていたら、
 来た、来た、おったまげるようなでかいのが」
 「でかいだろう。ライオン並みだろう。なにしろ俺たちよりもっと肉食動
 物だもんね」
 「でかいなんてものじゃありませんでしたよ。こし|布団《ぶと
 ん》に見えましたよ。何か紙の袋もついて来たから、これはなんだと言っ
 たら、ドギーバッグと言うんですよ」
 「ああ、食べきれないからその袋に入れて家に持って帰って犬におみやげ
 にしろ、というやつだよ。実は、家で人間が食べるだけれどね」
 「そうでした。でも僕は全部ペロリと食べちゃったら、厨房からコック長
 が出て来て、何か大声で言うから、犬の分を食べちゃったから怒られるの
 かと思ったら、『いままで、日本人でこれを全部食べた人はあなただけ 
 だ。ありがとう』と言って握手されましたよ」
 「おまえさんも全くライオンだね」
 「いいえ、僕は山犬」
 
 さて、末尾にわたしの黒澤作品のベストファイブを紹介します。
①『七人の侍』(1954年)
②『用心棒』(1961年)
③『天国と地獄』(1963年)
④『生きる』(1952年)
⑤『どですかでん』(1970年)
 
①:平成3年9月から11月、鹿児島県の家畜衛生試験場九州支場に研修中、天文館の劇場で観た。小声?で書くと、三ヶ月間の研修よりこの207分の映画一本の方が収穫は大きかった(ええ、それほどの名作ということです)。
②:大ヒットを飛ばした作品。三十郎が、ふらりと宿場町に入るトップシーンで観客は度肝を抜かされる。わたしも日によって①とランクが逆転する。
③:国鉄の全面協力を得て、〝こだま〟から三千万円の身代金が入った鞄を窓外に放り投げるシーンが白眉。拙著『お苦しみはこれからだ オキナワの動物病性鑑定記』は当初、カバーの挿絵にこのシーンをもじったイラストを作製しようと考えた。
④:胃がんで余命いくばくもない志村喬(たかし)演じる市民課長が、公園のブランコで雪にまみれながら口ずさむ「ゴンドラの唄」……。日頃、人非人と呼ばれる筆者もここで不覚にも涙した。
⑤:黒澤初のカラー作品。那覇市の封切館でリアルタイムで観ている。山本周五郎の『季節のない街』が原作だが、興行的には不評だった。
 黒澤明は1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。
 疾風怒濤しっぷうどとうの生涯を通して、数々の不朽の名作が国民
 に深い感動を与え、世界の映画史に輝かしい足跡を残した。
 1998年9月6日に88歳で没後、「黒澤天皇」と呼ばれた男に映画監督初の国民栄誉賞が贈られた

                初出:『肉牛ジャーナル』2024年4月号


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?