元牛

 えェ、人には自分でない何かになってみたいという気持ちがあります。いわゆる自己変身願望というやつですネ。それでもそうは問屋がおろさないから、毎日悶々もんもんとする。ああー明日からまた月曜日だ。あのちんけで蚰蜒げじげじ野郎あいてにヨイショしないといけないと思うといたたまれない。恋人に振られたからもうどうにでもなれとベッド中でうずくまっているやつ。えぇー、あのフランツ・カフカの『変身』という小説もそうした絶望感が作品のヒントにもなったと聞いたことがあります。
 人だけがそう思っているかというと、そんなことはありませんな。ほら、あの黒いやつだって。
 
 「おれァ、ひょっとするてえと、人間になれるかもしれん。あぁー人間になりてぇね。人間になりてぇ。石垣宝来ほぎ神社さまにお願いしてみよう」
 なんてンでこの黒公が、牛小屋を抜け出して、三×七、二十一日の間、はだし参り……牛だから下駄ァはいちゃァいねえけど、一生懸命こうおがんでいるぅてぇと、満願の日の朝、どこともなく吹いてきた風でもって、黒公の毛がネ、サァーと飛んじゃって、人間になっちゃった。
 「え、ありがてえなァ、どうも、人間になると、こう二本足で立てるんだからな、二本足で立つと背丈が伸びた心持ちだな、モーウ。だけど人間ンになったんだけど、裸じゃしょうがないね、裸じゃァ……」
 えー、石垣宝来宝来神社さまの奉納手拭いをつないで、腰ィまきつけて、
 「えーと、おれは人間になったんだから、どっか奉公しよう。奉公して働かないと、メシが食えねぇてからな……。おやッ、向こうから来るのはなンだ、えー来るのは、ありゃァ、ホットスパー大川店の店長だ、モーウ。店長、店長ォー、えー、こんちは」
 「誰だい、あたしを呼んだのは?え、お前さんかい、あたしを呼んだのは?」
 「へえ、こんちは、モーウ」
 「なンだい、え、裸でいるねえ、お前さんは? どうしたんだい、え、悪い奴にでもひっかかって、盗られたンかい?このへんは石垣市を根城ねじろにした反グレの連中がよくいた場所だからね」
 「いえ、そうじゃないンで……。えー奉公がしたいですがねえ」
 「奉公? あー店員さんになりたいのかい。お前さん正直そうな人だから世話してあげよう。正直という人には悪い人はいないというからね。じゃァ、一緒においでよ」
 「どうもすイません」
 「あー、今帰ったよ。あー、なに若い衆でナ、裸でずっといたようで真っ黒くなっている。ウン、世話しようと思ってなア。だから店ィ連れてきたんだ。あァ、そこんところから入っておくれ、えー、入る前に足ィ洗うんだ。だいぶ汚れているようだから。まー、堅そうな立派な足だねエ、まるでひづめだね。洗ったらその雑巾ぞうきんで、足をよく拭いてナ、そうそう……。おーッと、雑巾ゆすいだ水を、飲むんじゃねえッ。汚ねえなこの人ァ……。なぜそういうことをするんだよ。え、本当に? ご飯喰うかい、ご飯を?」
 「すイません」
 「じゃァ、すぐにおたべ……。あ、お前さん。よく見ると上の前歯が1本もないねエ?」
 「えー、ガキの頃からずぅーと生えてないんスよ」
 「大変だネ、それじゃ」
 「いえ、モーウ慣れましたから。その代わり奥歯はしっかりしてるんスよ。それに時々喰ったものを、胃から戻しますんで消化には不自由しません」
 「よしなよ、それじゃまるで反芻はんすうじゃないかイ。ここは食べもんも扱っているから、あまりみっともないことはよしとくれ。で名前は なンてんだ?」
 「名前は黒てンです」
 「黒木かい?」
 「いえ、サンシンの原料じゃないんですから」
 「黒砂糖かい?」
 「いえ、店長。いくら新作落語が何をやってもいいからって黒砂糖という名前はないと思うですがね」
 「クロ……なんとかいうだろう?」
 「いえ、ただ、クロってンで……」
 「ただクロ……ほほう、忠九郎かい、ウン、古風で立派ないい名前だ」
 「年はいくつかい?」
 「へい、三つで」
 「ほう、二十三歳か。まだまだこれからが楽しみだ」
 「それでお父さんはいらっしゃる?」
 「えー、親父はよくわかンないです。あたしが生まれた時にはモーウ家に居なかったもんですから」
 「かわいそうに、お前が物心つく前にはもう亡くなってしまったのかい?」
 「いえ、えー、山原やんばる今帰仁なきじんのなんとかセンターというところにまだ元気でいるらしいですヨ。確か親父の名前は『茂北福しげきたふく』っていうんです」
 「関取みたいな名前だな」
 「セキトリ? あー運動会の夜明け前からみんながいい場所探して、一目散になっているやつですネ?」
 「お前さんが言っているのは席取りだ。私が言っているのは相撲取りのことだヨ」
 「いえ、相撲取りなんて目じゃねえ。親父の目方はその四、五倍はあったとおふくろは言ってましたよ」
 「面白いことを言う人だね、お前さんも。じゃ、少し店を見てもらおうか。入り口のすぐ右奥が雑誌のコーナーだ」
 「へえー、色々ありますね。『文藝春秋』、『天然生活』、『月刊DMM』、『極選 人妻BJ』、『快楽天』……」
 「これから反時計回りに、清涼飲料水、ジュース、ビール、チューハイが並んでいる。お前さんの仕事は商品が無くなったら、裏に回って補充しておくれ。ここからは食品コーナーだ。賞味期限のチェックを忘れずにナ」
 
 ……そして、この黒公、動作は鈍いが毎日よく牛馬のように一生懸命に働き、愛嬌もんで客にもすこぶる評判がいい。
 「あー、これクロ、辛抱強く一月よく働いてくれたなー。これが今月分の給料だ。受け取りのハンコを押してくれ。え、ない? ……なけりゃ、ハンコ代わりに拇印ぼいんで結構だヨ。ここに朱肉がある。おいおい、なにするんだ、鼻に付けてどうするだヨ。親指に付けるんだ」
 「すいません。いえなに、まだガキの頃、沖縄県家畜改良協会の具志堅さんが来て、汚いタオルでこう鼻を拭かれ、印を採られたもんで、てっきりこうするもんだと。ええ、何でも鼻紋びもんって言ってましたよ」
 「どうもお前さんのやることなすことよく判らないね。先だっても、新潟の銘酒『〆張鶴しめはりづる』を買おうというお客さんに、無理矢理とりあげて、こっちの方がいいですよと紀州和歌山の『黒牛くろうし』てエ酒をお薦めしたろう。それに先だっては石垣牛コロッケを買ったお客さんから無理矢理取り返し、あぐーミンチカツと交換したというじゃないか」
 「いえ、何か本能がけしかけたような気がしたんですよ」
 「それにお前さん、雑誌コーナーで時々、ソフト成人雑誌ものを見て涙を流しているじゃないか。若い客の中にはあんぐりと口を開けて、よだれを垂らしている人は時々いるが、泣いているのはクロだけだ。なにかわけありかい?」
 「すいません。店長。実はあたしが生まれた後、母親が産後の肥立ちが悪く、無理やり離されまして」
 「へえー。親子生き別れかい?」
 「そうなんです。それで哺乳ロボットと言うんですかい? あれに付けられてずっと半年の間、育ったんです。いえ、なに育ての親ですから、ロボットには感謝しているんですヨ。……ただ今でも、あの雑誌コーナーでグラビアのでっかいオッパイを見ているとあの時の母親を妙に思いだして泣けてくるんすスよ」
 「そうかい、言っていることはオレにはよく判らんが、あれ以来、それがトラウマ(心的外傷)になったというわけかい?」
 「いえ、店長。虎が馬になったんじゃなく、牛が人になりました」
                           2008年3月作品

#創作落語 #石垣島 #牛飼い #元犬  

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