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【日記】正常を語ると同時にノーマライゼーションに想いを馳せる

僕は予防医学(特に筋骨格系の障害予防)を広めようと人生を過ごしています。そうするとどうしても「正常とは!」という話になります。

異常とは、正常からの逸脱」と考えるからです。

正しい姿勢とは?
正しい歩き方とは?
正しい呼吸のあり方とは?
正しい心の状態とは?
正しい生活習慣とは?

正しいが連発されてしまいます。その正しさを生物学や比較解剖学、進化学などから学び、先住民や文化から学ぼうとしています。

しかし、この正しいという表現には、常に正しくない、異常という言葉が対として存在しているわけです。

【みんな仲良く元気よく】

よく学校の標語として、掲げられていましたね。確かに、仲良いことはいいことです。元気のいいことも。

でも中には、人と仲良くすることが苦手な子もいます。中には元気になれない子も。その子ども達にとってこの標語は、

「君はなぜ仲良くできないんだ?」
「なぜ元気がないんだ?」
「なんでみんなと違うんだ?」
「ダメじゃないかみんなと仲良くしなきゃ!」
「ダメじゃないかみんなと同じように元気よくなきゃ!」

という裏にある、対の意味を感じてしまう辛い標語かも知れないのです。意図しなくても言葉には対の概念が付着しているものです。

「健康な体に健全な心が宿る」

これもよく言います。では、健康な体を持たない人の心は健康ではないのでしょうか?

正しい、健康、元気などのとてもポジティブな表現の裏には、逆はよくない、異常であるという概念がセットになってしまうのです。

でも、ポジティブであることが悪いことでもありません。元気な子を褒めないのもおかしいことです。それはいいことです。

正しい姿勢が障害を予防することは事実ですし、その姿勢を啓蒙しないわけにもいきません。それはいいことだからです。

ですから、これらの表現を行うと同時に、ノーマライゼーションの概念に想いを馳せることも必要なのです。

いいことを褒めつつも、多様性があることも忘れないということです。

【ノーマライゼーション】

このノーマライゼーションという概念は1950年台に北欧で提唱された社会福祉の概念です。関連する概念としては、バリアフリーとかユニバーサルデザインなどがあります。

障害を持っていても、人間としての尊厳や権利は障害がある人となんら変わらないのだと。人間は障害によって差別や区別されることなく、それぞれの個性として尊重されるような社会こそが人間のあるべき社会なのだと。

僕はリハビリテーションの専門家として、当然このノーマライゼーションも学びそして理解しているつもりです。

人間が野生動物と異なる所の一つとして、弱い者を周りで協力して守り、仲間の一員として尊重するというところがあります。野生動物では弱肉強食ですし、ハーレムは強いものだけが独占します。

人間は尊重する、助け合うという特徴を持ち、肉体的な強さだけではない、心の強さや、存在としての価値など人間ならではの概念を構築してきました。健康という定義には、肉体的、精神的に良好な状態とそして、社会的に良好である状態も含まれています。この社会的という部分が人ならではなのでしょう。

ですから、予防運動として、障害のない心身のあるべき姿を強調すると同時に、この社会的な社会福祉の視点はとても重要なのです。

極端な話、肉体的障害を持っていたとしても、社会の中での存在意義や精神的に良好な状態であればそれは、その逆よりも健康なのだと思います。健康という言葉を使うとき、正常を予防運動として啓蒙する時、いつもこのことに思いを馳せるのです。

みんな違ってみんないい。社会の中では各自存在そのものに全て意義があり、全ての人には尊厳があり、互いの個性は尊重されるべきなのです。

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