見出し画像

浄化、洗礼、祈りは人を素直にする幸せのシステムなんだろう

僕は宗教学者ではないですし、各宗派や神については常識以上のことは知りません。ただ、世界中に宗教があり、祈りがあり、洗礼や浄化というシステムが存在していることは知っています。

そしてインドの聖地や河川信仰を見てきました。日本では禊や、記念日にはお参りをしています。

手を合わせるという行為は、仏教の合掌が有名ですが、ヒンズー教でも「ナマステ」と手を合わせますし、キリスト教でも合わせることがあるようですね。

寺院はどの宗教でも場として存在しますし、洗礼というのも、河川信仰に限らず聖水というものを想定して、浄化という概念が存在しますね。

もちろん、こんな機会な風習を作っているのは人という動物だけですが、世界中になるということは、人として必要だということですよね。なくてもいいなら存在していないでしょうから。

【素直になる】

僕は祈りや、浄化というのは、人を素直にするためのシステムではないかなと思っています。日本なら、神様や仏様に祈りを捧げて、感謝し、自分というものを一度リセットするためのシステムではないかと。

頭を一度日常から切り離す方法かもしれません。忙しい、追われるような毎日の中で、祈りの時間は大いなる存在へ感謝をする。そうすることで、頭を切り替えて新しく歩み出せるというようなものでしょうか。

それは自宅でもできますし、もっと雰囲気や場の空気感の演出もある寺院では、もっと強烈にリセットできるのでしょう。そのための工夫が寺院にはあると思います。建築的にも、装飾的にも。

人は基本的に、わがままですし、自己保存のために時に残酷になり、綺麗事だけでは済まない世の中に生きています。道徳や倫理という人工的な概念と、自然という生物の間に人間は存在していると言ってもいいでしょう。

矛盾を帳消しにするシステムが必要です。それが、浄化や礼拝などではないかと。

神聖とか霊性とか言いますが、それも人が祈りの対象として作った概念なのだろうと思います。以前、社会性が構築されると「神」という概念が創造されるという研究結果を読んだことがあります。それは社会システムの必然的なものなのでしょう。

【綺麗ごとと俗】

出家というのは綺麗ごとの立場になるという事だと僕は捉えています。だから、本来の出家者は仕事をしなくても托鉢などで生きていけます。というか、綺麗ごとの方々を俗の人間が支えています。

日本ではなかなか全く仕事をしないというのは難しいかもしれませんが、文化としてタイやインドなどではまだそのようなシステムが残っています。

俗の人間は、俗ですから綺麗ごとでは生きていけませんが、在家としてある程度、浄化や祈りなどを通してその世界とつながっている事で安定を保っているのだろうと。システムとしては持ちつ持たれつの関係と言いますか、社会性なんだろうなと。

祈りを捧げるという行為がなくなったと考えると、少し怖くなりますね。リセットすることができない。感謝したり、素直になる機会がないということです。

他の方法で代替できるか少し考えてみても、なかなか出てきません。やはり線香をあげて手を合わせるとスッとします。クラス前にオームを唱えると落ち着きます。そういう行為を日常の中に持っていることはとても安定につながるんじゃないかなと思います。

その行為は思想ではないので、対象は特定の神であっても、お天道様でも、宇宙でも、自然でも、造型物でもいいと思います。対象があれば。

祈りも複雑な内容よりも、「ありがとう」、「頑張ります」くらいのシンプルなものの方がリセットされる気がします。きっとそれくらいシンプルな役割なんだろうと思います。複雑にして文化として人間は確立していくわけですが、そういう文化の継承はその道の方が行えばいいですが、僕ら俗は、日常の中で、例えば食事の「いただきます」や、朝日(ご来光)への合掌、神社でのお参りなど、風習を大切にしていくことが大切なのだろうと思います。

最近、近くの神社でも七五三の子ども達や親御さんをたくさん見ます。素晴らしい日本の文化が末長く続くことを合掌してお祈りしたいと思います。合掌。

よろしければサポートをお願いします。私自身ではまだまだ微力です。当たり前の選択や情報を得ることができていない方々に、予防医学の視点で、知らなかったことで損した方を少しでも減らすよう、有益な情報を発信していきます。皆様の応援を励みに、より精進して行きます。応援ありがとうございます。