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守貞漫稿 もりさだまんこう(ベーゴマ考48)

守貞漫稿とはなんや??

守貞謾稿は江戸時代後期の三都(京都•大阪•江戸)の風俗、事物を説明したさ一種の類書である。著者は喜田川守貞。起稿は1837年で、約30年間書き続けて全35巻をなした。刊行はされず稿本のまま残されたが、明治になってから発見、翻刻された。1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献とみなされている。 つまり「守貞さんの百科事典」みたいな感じ。


『守貞漫稿』は、このような書き出しで始まる。

「余、文化七年庚午六月、浪華に生る。天保十一年九月、東武に来る。時に三十一。深川に間居し、黙して居諸を費やさんことを患へ、一書を著さんと思ひ、筆を採りて几に対す。ここにおいて、専ら民間の雑事を録して子孫に遺す。ただ古今の風俗を伝えて、質朴を失せざらんことを欲す」

訳…1809年大阪にうまれ、1840年、31歳で大坂を出て江戸に来た。深川に暮らして、詩経ばかりを読み漁る日々に虚しさを覚え、一念発起して本を書こうと考えた。テーマは民間の雑事であると語る。

よくもまあ一念発起してくれた。
わたしもいろんな地域にいったら
そこの風土や違いがきになって
キョロキョロキョロキョロ
きになったらとまらない
典型的な多動
きっと守貞さん生きてはったら
ずっと酒飲みながら話できるわ。

歴史は誰かがまとめないと
わからなくなる

だから
わたしもこうやって書いている
どこにもニーズはないと思うが
いつの日か気になった人がいたら
それでいい。

昔っぽく書くとしたら
このnoteは
「関西貝独楽遊戯見聞録」である。

『守貞漫稿』には、京坂(京都・大坂)と江戸の風俗・物事を対比して記録したページが多い。

守貞は江戸に31歳で出たが、仕事と生活の拠点は大坂にあり、たびたび商用で江戸に出張したと考えられる。生来、上方(京坂)文化のなかで暮らしてきた人であり、江戸とその文化は未知の領域だった。

江戸にやって来た守貞が、こうした違いにカルチャーショックを受けたことは容易に想像がつく。それだけではない。言語(方言)、風習、暮らし、衣服、食事、人々の趣味嗜好に至るまで、江戸と京坂は著しく異なっていた。だが、守貞はそれらに優劣の基準をあえて設けなかった。ひたすら、可能な限り正確に事実だけを綴り続け「子孫に遺す」、それだけが願いだった。

遊戯についても
江戸期の貝独楽のこと、またそのころの京阪と江戸のちがいを伝えてくれる貴重なものだ。
よくもまぁ、このころ禁止もされていたであろう貝独楽を書いてくれた。
ありがとう守貞さん。

第28巻22項

デジタル化されていたので、
とりあえず片っ端からどこにかいてあるか探した。
28巻は「遊戯」である。
タコや独楽もでてくる。

鳩車がかわいい

ベーゴマの元にあたる貝独楽は
叩き独楽のあとにでてくる

江戸期の貝独楽を描いたものでは一番リアル

守貞漫稿にでてくる
貝独楽の挿絵は
まわしている絵ではなく
貝独楽自体の絵なので
最も構造がわかりやすい。
絵図の下には作り方が書いてある

「図の如く始め上手を槌にて○かき去り小口を砥を以って磨○緒を以って回博みする也」

バイ貝の上の部分を金槌で割ったのち
砥石などで砥いて 
平面にしたものに
蝋を入れてあるように見える
それを紐を使って博打に用いたということか

遊び方

嘉永六年(一八五三)刊『守貞漫稿』

まずは京阪の地域の遊び方について記入している

「京坂の男童貝徳とけ貝を回し勝負をなす先其れは砂糖或は索麺等の空櫃の蓋を除き其上に蓙の類を帖み蓋となし凹となし二童各一貝を投入れ回す時相当て弾き出さる方を負とし残り回る方を勝とし専ら貝を賭として勝ちたる方へ負たる方の貝を取る也・・・・・・」

超現代語訳
関西のやんちゃ坊主たちは「貝徳」というて貝を回して勝負すんねん
砂糖とか素麺の箱、蓋ほって、ゴザみたいなもんひいて凹まして土俵にするわけやな。
2人同時に貝まわしてやな
いれよったら
ぶっ飛ばされたほうが負けやな
残って回っとるほうが勝ちっちゅうこっちゃ。博打やから負けた方は貝買った方に取られるねん。
文化の頃(1804〜18)より今に至るまで行われとるけどその始まりは
わからへん。

作り方と値段

「貝底に鉛をわかし入れ其の上に晒蠟を以って不傾やうに埋之表には朱或は青蠟を以って平くす、多くは童の自製に非ず店にあり、売之三~五十銭より右の如きは百文ばかりあり.....」

超現代語訳
貝の下部分に鉛を溶かしていれて、晒蝋(ハゼの実から取った和蝋を日光で晒して白くしたもの)を流し込んで表面を平らにする。ほとんどは子どもが作るというよりは、店でうっていて3〜50銭、中には100文ほどのものもある。


(鉛をもちいらずをカラバイと言い屑とせず)

鉛をいれてないものもカラバイとよんで捨てはしなかった  ってことか?

これらは
当時貝独楽が盛んであった
上方つまり大阪と京都の様子と思ってみていただければよい

この蠟をもって表面を埋めた海螺独楽は美しく、さらに高価な独楽は花鳥の絵や、松竹梅などいった絵が極彩色で描かれ、紫の小蒲団にのせられて店先で売られた。
した店は大阪(松屋町)に多く、屋号もベイ房とかバイ安などという名の店が数軒あったといわれる。この頃は露店で加工しながら売る店はしだいになくなっいた。こうした京阪の海螺独楽は見事に美しいもので、もちろん高価な独楽であった。この独楽の愛用して遊ぶのは大人たちで、安価な子供の独楽は表面に色蠟が張ってあるだけだった。


貝独楽は
江戸では京都・大阪ほど盛んでなかった。その頃は鉄胴独楽が流行っていたこともその一因である

本文には
「江戸にては右の如き精製無之番太郎小屋にて貝殻の全体なるを売るのみ一價二銭買」之て自製に上の方を歓き去り回す江戸にても賭とすれども行ならず鉛蠟など稀に用ふるのみ」

とある
江戸側では右の如く精製なし=念を入れて作ったものがないつまり関西ほど質の高いものがなかったようで、

番太郎とは江戸時代、町村で治安を守り、警察機構の末端を担当した非人身分の番人。平常は、番人小屋(番屋)に詰め、町村内の犯罪の予防、摘発やその他の警察事務を担当し、番人給が支給されていた。番非人。番子。ともいう。
そんな番太郎が貝のまんまをうっていた。それを子どもたちは自分で上の方を槌などで欠かしてまわした。賭けとしてもそんなに行われなかった。
鉛や蝋はめったに使わない。

実際に関東側では  
その後も基本的には
先ほど出てきた「カラバイ」をつかっていたようで、
当然あまりまわらない
それが
明治末から大正期
貝独楽が金属化した際にも
かんとうは中身がないからっぽの
カラバイを踏襲したため。
関東側は中身がないオチョコベー
が主であった。
オチョコベーはというと、
当然軽いため、簡単に吹っ飛ばされる。
そのため、関西から入ってきた
てっぺんまで埋まっているものをよく使ったという記述がある。


歴史は記録がないと
認定されない。

四大文明がふえないのは
記録がないためで、
いまのこどもたちの遊びのあたりまえの文化も
しっかりと記録にのこすべきだ。

…だれかバーコードバトラー語りませんか?

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