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関西鋳物団地物語(ベーゴマ考38)

「関西バイ」はどこで作られていたか
今のところ判明しているのは
次の三つである

①『豊国鋳造(トヨクニ)』
旧布施市(現東大阪市)岸田堂西
②春日鋳造(平野区 主に戸車製造)
③『富山鉄工』戦前 大阪市福島区
(主にポストを鋳造)徳島バイのルーツ

この①の豊国鋳造は
お師匠様(日本独楽博物館)がかなりの間、発注していた、昭和47年頃までは、関西バイの巴や六角六大学野球凹文字バイなどを製造していたことがわかっている。

昨日、
大阪健康福祉短期大学の代田先生から
ご連絡を頂いた。

こどもの健全育成分野
でお名前は存じていたが、
ベーゴマを投稿してはったので
勝手に懐かせてもらった。

私はさしあたり
髭が生えたデカい
スネにじゃれつく猫である。

ベーゴマ、とくに関西バイに興味をもってはる人はかなり貴重であり、
先生も東大阪のことについて調べてくださった。
以下代田先生より

代田先生情報


(経過)
・東大阪市の商工会議所を経て、現在東大阪市の中小企業の情報収集や記録、発信を行なっておられる方に「かつてベーゴマをつくっていた豊国鋳造所等の情報収集」を依頼しました。

(結果)
・昭和46年度版の住宅地図上で、(株)豊国鋳造所が確認できました。
・東大阪市岸田堂(大阪市生野区と隣接する地域)には非常に多くの鋳造所が密集していたことがわかります。
・当時、布施鋳物組合という同業者団体があり、最大38社が加盟していましたが、現在、1社が現存するのみだそうです。
・豊国に隣接するように、南側には「徳山鋳造」、西側に「中橋鋳造所」、北西に「大同鋳造布施工場」「高砂鋳造所」「角野鋳造所」等の名前が確認されます。
・調べていただいた方の表現を借りるならば「『鋳物団地』の様相を呈しています」とのことです。
・こうした『鋳物団地』の中には、豊国以外にもベーゴマの製造・鋳造をしていたところがあったかもしれません。

『鋳物団地』

なんて甘美な響だ。
その様相を見たい
いてもたってもいられず
私はここに向かった
大阪府立中之島図書館である

中之島図書館
いつも見上げてしまうエントランス

現在のパルテノン神殿かと、見間違える
素敵な図書館で、

東大阪市の住宅地図を、探す。

真ん中に豊国鋳造所

布施市   S34年の住宅地図
東大阪市 S44年11月の住宅地図
に豊国鋳造確認

ピンクが、名前から『鋳造所』とわかるものだが
実際に〇〇鉄工や〇〇金属、〇〇工業、〇〇溶鉱所なんてものも
鋳造所かもしれないので
さまざまな工場が密集していた事が伺える。
また、よく見ると
・木型製作所
・メッキ工場
・金属
など、鋳物につながる業者も多い。

じっと見てると
お雛様を作っている工場があったり
ガラス製瓶所
喫茶店
銭湯
食堂
あと、やたらあるパン屋
色々見えてきて面白い。

さて・・・・。
今はどうなっているのか??

だめや

気になるww w

と思ったので
いざ東大阪に
行ってみた。

豊国鋳造跡地

豊国鋳造の跡地は民家と工場?
豊国鋳造跡の工場。ハンガーとか作ってたり、数軒の中の一軒はレイアウトを仕事にしてはる見たい
五一鋳物鉱業所は今は生コン屋さんになっていた。
豊国鋳造時代の長方形の工場のあと
徳山鋳工の跡地は業務スーパーに


実際に話を聞こうと試みるが留守なようで
情報は得られない。
地図に従って歩くが
同じ苗字はあれど、当然子どもか孫の世代

鋳物工場の名残はない
覚悟していたが
全くと言うほどない

第一食堂

そんな中
当時からやっている『第一食堂』さん発見
当然、昔は近隣の鋳物工場の職人さん達が食べにきていたに違いない。

蕎麦を注文して
情報収集。

なんでそんな金にもならへんことやってんねん
って聞かれたけど
金にならんからおもろいんですわ。

と話したら
そんな私のことを面白がってくれた。

第一食堂さんは
先代さんが1960年頃に和歌山から出てきはって、この地で食堂を始めたそうだ
お父さんも、小さい頃、バイはまわしたと言うてはった。

しかし、豊国鋳造がバイを作っていることは知っていたが
他のところが作っていた覚えはないとのこと。

お父さん自身、今65歳くらいだが、駄菓子屋でバイを購入。
この辺は下町で、ガラは悪かったが、駄菓子屋が至る所にあって
そこでバイを買ってやっていたそうな。

バイを見て、懐かしいなぁって言ってはった

昔は鋳物屋さんの職人さんがたくさんきていたそうだが
今は、みんな辞めてしまって一件しか残っていないとのこと。
今も当時の生き残りみたいな常連さんが1人だけ
お昼に食べにくるそうだ。

いろんな鋳物屋さんが辞める時に、記念にって
鋳造品を持ってきたらしい。テレビの横に銅鐸があって見せてくれた。

その後、昔のことなら〇〇さんに聞いた方がいいって、一緒に自転車で2軒回ってくれた。(お二人ともお留守だったけど、その心遣いが嬉しかった)

バイごま里帰り

尼かとおもてまうわ

路地に入るといろんなところが
昔ながらの趣がある街だった。

なんというか
うん
尼崎に似てる。
職人さん達の街だったんだろな。
今も辻々にその香が残る。

このバイももしかしたらここで作られたかもしれない。
下手すりゃ60年ぶりの里帰り

ベーゴマの鋳造を専門にしていた鋳造所はだいぶ珍しい。
川口の日三鋳造を東の横綱とすると、
当時は、布施岸田堂の豊国鋳造は西の雄だったであろう。

多くのバイを鋳造していた鋳造所は
メインの製品が別にあり、その片手間に作っていたと思われる。
それは徳島バイ探訪の際に
数社より聞いた。
また、鋳物産業は
戦争と密接に興隆があり、
第一次世界大戦の時に、需要が上がり
戦争後になると、需要と供給のバランスが崩れ
お金にならない児童玩具にまで鋳造業者が入ってくる。
第二次世界大戦の時も
日本全国で、鉱山が再開発されたように
必要が大きくなったことが想像できる。
大阪大空襲の焼失地域からここ布施岸田堂周辺は入っていない。
もしかしたら
戦争との関係性が
この布施鋳造団地を形成したかもしれないが、
それはもう少し調査が必要だ。
しかし、数ある鋳物の中で駄菓子屋に卸して
二束三文にしかならないバイをメインに据えていたのは
狂気の沙汰かもしれない(笑)

川口の日三鋳造の辻井社長に
昔の型残っていないんですかね?って聞いたことがある。
すると、多くの型は、ブームに従って作るから、木型だったので
ブームが終わったら薪にするから残っていない。

と言っていた。

私が持っている関西の型は
鉄の元型であった。
これは徳島で富山鉄工の社長や、小林さんに見てもらったから、間違いない
関西のこの型から鋳物を作るのは難しいとも言っておられた。
(※現在は真ん中にプレート状(シート状)になっている)

東京側の大ベーゴマブームの頃の型はたくさんあるが
関西の方の種類はそこまで多くはない。
私が把握しているだけで、
関西の型がこの鉄型だったとしても
そこまで多くの型があったとは考えにくい。

私が持っている 巴

使いまわしていたとしても
そこまで「型」が存在していたわけではないだろう。


関西のバイに関する
歴史的な資料は限りなく少ない
そして
その背景を知っている人も
だんだんといなくなる。

このままでは誰も知らなくなる

これは嫌だ。

少しずつ見えてくる
歴史のカケラが
ほんまにおもろい。


食堂のおっちゃんが言うてたように
お金にならんけど

やっぱり
お金にならんことの方が調べてておもろい。

代田先生ありがとうございました。
今度床持って行きますから
まわしながら飲みましょう!!

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