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葛飾ベーゴマ賛歌[ベーゴマ考⑨]

#赤胴鈴之助
#関西バイ
#ヘルシンキ五輪   
#水泳三羽烏
#透明人間

人との出会いだけでなく
ベーゴマの出会いもまた
かけがえのないもので
縁に感謝します。

葛飾のおじいさまとしりあった。
とても素敵な方で
そしてお話も興味深い


以下抜粋

ベーゴマデビューは4才のころでした。
ベーゴマ、めんこ、ビー玉全盛のころでした。
紙芝居、型屋(素焼きの型に粘土をつめてからはがし、いろいろな色の粉で装飾するもの)、
玄米パンやアイスキャンデー移動販売(チャリで)も全盛でした。
昔は子供も多く近所の上級生が3から6才くらいの子に教えて
デビューさせるのがならわしで
中学にあがるときにくじ引きを手作りして下級生に譲ったりしてました。

ハリケツ加工品は戦利品には多くありましたが
私自身は作ったことはありませんでした。
ひたすら中心を出して長く回るものばかり作っていました。

私は当時(昭和40年代)地元で入手できたものしかしりませんが、
関西や西日本から引っ越しをしてきた子が全く違う種類のを
持っていたのをかすかに記憶しております。
珍しいのを持っていると聞きつけて隣町やさらに隣町くらいまでは
自慢のべーごまを持って戦いにいきました。

インターネットのない時代にそろばん塾や剣道・柔道教室、ほねつぎ(接骨院)等で
情報を入手しておりました。


今の時代にも
ベーゴマひとつで
子どもたち同士が巻き方、投げ方、加工の仕方を子どもたち同士で教え合う姿がみられる。
60年前のベーゴマには
当時の歴戦の勇者の戦いのあとが
見られる

あるものは
蝋やクレヨンで充填して重さを稼ぎ
あるものは
コンクリートに擦り付けて
先をとがらせる

ここぞという
とっておきを
取られて悔し泣きした姿が目に浮かぶ。

とった取られたがあるから
大人が禁止した。
賭け事だから?
遊びはときに大人の模倣である
取られないように
加工して
取られないように
練習して強くなる

昔のベーゴマたちを通じて
子どもたちは昔の子どもたちから伝わってきた何を学ぶんだろう。
昔のベーゴマをムカシンベーと呼ぶが
その一つ一つに
たくさんの子どもたちをわたり歩いた歴史があり
悔し涙も
嬉し涙も
傷や錆として残っている気がする。

おもろいで
ベーゴマ

みんなでベーゴマしようや!

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