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フジヤマのトビウオ達(ベーゴマ考42)

ベーゴマを調べていて
多くは野球選手やプロレスラー
力士の名前が表記されているが
そのなかでSSRといえる
シリーズがある。

競泳メンバーだ
間違いなく彼らは戦後日本の
光り輝く希望であった。

幻の世界記録

戦後、敗戦のなかから皆が必死で生きていた頃、

第二次世界大戦により、1940年と1944年のオリンピックは開催されていません。そのようななか、急遽ロンドンはオリンピック開催を打診され配給制における必要物資の不足という状況であったにもかかわらず、
1948年
ロンドンオリンピックが開催される
日本が参加を望んだロンドン大会は、開催国・英国の強い反対によってドイツとともに招待リストから除外された。戦争責任という名目の政治利用である。

そこで、日本は
全日本選手権を
ロンドンオリンピックと同日に開催

タイムで上回れば
国際的な記録とならなくとも
日本の実力を示すことができると考えたからだ。

そのけっか
オリンピックの金メダリストよりも
7秒以上早いタイムをたたきだした。

しかし、
世界の評価は
日本はプールが短い
敗戦国はストップウォッチも壊れている
など信じない声ばかりだった。


戦後の希望

 その世界の目が変わったのが
アメリカで行われた、翌年49(昭和24)年の全米屋外男子選手権。
ビザをもらいに当時のGHQにいくと
「米国をやっつけてこい。まけたら帰りのビザはしらんよ」とマッカーサーに言われた。
粋な応援である。

主将として稲泳会の村山修一、日大の古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博、丸山茂幸、そして早大学院の田中純夫の自由形6選手が出場した。1500m自由形で古橋が18分19秒0 の驚異的な世界新記録をマークするなど、計9つの世界新記録を作った。

日本国内が大騒ぎになったのはもちろん、大会前は反日感情むき出しだった米国の新聞の論調ががらり一転、「ザ・フライイング・フィッシュ・オブ・フジヤマ(フジヤマのトビウオ)」と、歴史に残るタイトルをつけて大きく称賛したのである。

敗戦で打ちひしがれていた日本国民に大きな希望と勇気を与えた。

古橋廣之進

古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年(昭和3年)9月16日 - 2009年(平成21年)8月2日)は、日本の水泳選手でありスポーツ指導者。日本大学名誉教授。フジヤマのトビウオの異名を持つ。

橋爪四郎

古橋のライバル
ヘルシンキ五輪銀メダリスト


丸山茂幸

浜口喜博

田中純夫

ヘルシンキ五輪

参加が許された
ヘルシンキ五輪では
一杯の水で体調を崩した。

ヘルシンキ五輪のひとりプールに残され、コースロープに体を委ねた。広い背中がまるまり、頭が落ちた。1952年ヘルシンキ・オリンピック男子400m決勝。古橋廣之進は8位に終わった。
「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでください。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのであります」
実況するNHKのアナウンサー、飯田次男はあえぐようにマイクに向かって声を絞り出した。涙の絶叫であった。

しかし、
かれら競泳陣が
世界で活躍する姿は
敗戦後
みんなが希望をなくしていた時、
彼がともした灯は本当に大きなものだったに違いない。

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