夏目漱石と「則天去私」
「自由」という概念について考えてみます。
「自由」とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで自らの意思や本性に従っていることと定義されます。英語では、「自由」に対応する単語が2つあります。
①freedom
②liberty
freedomは「自由な状態」というか、自らの意思や努力を伴わずにある自然な状態の自由です。「漠然と存在している自由」のこと。これに対して、libertyは自らの意思と努力で獲得した自由のことです。「様々な闘い・運動を通じて手に入れた自由」のこと。
「天賦人権説」というものがあります。
・すべての人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利を持つという思想。
「天賦人権説」はフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)らの18世紀の啓蒙思想家により主張されて、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に影響を与えました。
そもそも、こうした人権や平等に対する考え方・思想は、前時代の「封建社会」を覆すために生まれてきました。当然、目の前に立ち塞がる「既存の体制」との武力的な闘争を伴います。こうした「自由民権思想」は、闘いに臨む民衆が理論武装するために生まれてきたとも言えます。
日本の明治期の思想家に、中江兆民という人がいます。中江兆民(1847〜1901)は、明治期に起こった自由民権運動の理論的な指導者です。さきほどのフランスの啓蒙思想家ルソーの著作を翻訳して日本に紹介したのは中江兆民です。兆民は「東洋のルソー」と評されています。中江兆民は幕末の土佐藩(現在の高知県)に足軽の子として生まれました。高知県は板垣退助や幸徳秋水など、自由民権運動の盛んな土地です。兆民は18歳の時に土佐藩の留学生として長崎に行きフランス語を学び、その後に江戸に出て学問に励みました。幕府瓦解後、24歳の時に新政府の司法留学生としてフランスに渡り、フランス流の共和主義思想を身につけました。帰国後は仏学塾を開いたり、「東洋自由新聞」などで活発に言論活動を行いました。とくに、ルソーの「社会契約論」の翻訳が有名で、当時の自由民権運動に深い影響を与えました。
中江兆民の思想をご紹介します。
①恩賜的民権(おんしてきみんけん)
・為政者が上から人民に恵み与えた政治参加を含む人民の諸権利。
②回復的民権(かいふくてきみんけん)
・天賦人権の回復を求める革命により、人民自らが勝ち取った自由・平等の権利。
中江兆民は、日本における人権はフランスやイギリスのような「回復的民権」ではなく、上から恵み与えられた「恩賜的民権」であるとしました。そして、日本の「恩賜的民権」を英仏などの「回復的民権」と肩を並べられるようにするのが日本人民の課題であるとしました。そのためには、国民が物事を根本的道理に従って考えられるように、道徳をおこし、教育を盛んにするべきだと主張したのです。
中江兆民の有名な言葉をご紹介します。
「わが日本、古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし」
・日本人は自分自身でつくった哲学をもたないので、確固とした主義主張がなく、目先のことにとらわれて議論には深みや継続性がなく、小ざかしい知恵はあるが偉大なことは成し得ず、常識はあるが常識をこえたことを成すことができない。
ヨーロッパやアメリカでは、民衆が自らの自由や権利を獲得するために権力闘争としての戦いがありました。それはフランス革命(1789〜1795)であり、アメリカ独立戦争(1775〜1783)です。では、そもそもこうした自由や権利を求める契機は何だったのでしょうか?民衆の自由や権利が認められていなかった前時代の社会体制を日本では「封建社会」と呼んでいます。ヨーロッパでは「ヒューダリズム」と言います。国王や君主、領主や諸侯が土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度のことです。実質的に「封建社会」が壊れる契機となったものは「貨幣経済の発達」だと僕は考えています。貨幣経済の発達の規模により、社会変革の急進性も激しかったのだと理解しています。
では、なぜ貨幣経済の発達が「封建社会」を壊していったのでしょうか?「封建社会」は身分制度の厳しい体制です。身分に応じた社会的な役割を担っていさえすれば、世襲制で生活が保障されていました。しかし、貨幣経済が進むと「富の蓄積」が可能になり、商人層が経済的な力を持つようになります。そのため、相対的に封建領主などの支配層の権力が低下します。逆に力を持った商人たちは支配者層からの搾取に不満を持つようになります。その歪みが次第に社会変革に結びつく考え方を生んでいったのです。
ヨーロッパにおける貨幣経済の発達は急激なものでした。中世のヨーロッパは同時代の東アジアやイスラム地域と比較して後進的な地域でした。
ヨーロッパを今に至る「ヨーロッパ」にした契機の始まりは、「十字軍の遠征」だったと僕は考えています。
①十字軍の遠征
②地中海貿易の発達(富の蓄積)
③ルネサンス(人文主義の発達)
④大航海時代(富の蓄積)
⑤宗教改革(市民社会の発達)
⑥産業革命(ブルジョワ台頭)
⑦市民革命(封建社会崩壊)
逆に、貨幣経済の発達がヨーロッパと比較して緩やかだった日本や中国では市民社会の発達も緩やかだったので、革命に至るほどの急進的なものにならなかったのではないかと考えています。
ヨーロッパで「自由」「平等」という思想が力を持つようになるのは、市民社会が発達して前時代の「封建社会」を打倒する必要性が高まったからでした。では、日本ではどうだったのでしょうか?日本における最後の「封建社会」は江戸幕府と幕藩体制の秩序の下の諸藩です。
江戸幕府は、1853年のぺリー提督が率いた4隻の黒船来航で尊王攘夷思想が沸き上がり大混乱に陥りました。この江戸幕府を瓦解に導いたのが、幕末の長州藩と薩摩藩の2つの藩です。幕末の長州藩は尊王攘夷思想を掲げ、都である京都で勢力を持っていました。しかし、1864年に起きたイギリスとの間の下関戦争、京都での池田屋事件、禁門の変などで劣勢に追い込まれました。江戸幕府は2度に渡って長州征伐を企画し、長州藩の打倒を図りました。この時、逆境にある長州藩を率いたのが松下村塾で知られる吉田松陰の弟子であった高杉晋作(1839〜1867)です。江戸幕府の討伐から自分たちの藩を守るため、高杉晋作は従来の身分にとらわれない軍隊を編成します。それが「奇兵隊」です。圧倒的な軍事力の劣勢を打ち破るためには士族だけの力ではどうにもならない状況となり、身分制度のタガを外して農民など下位の身分の者たちに武器を与えて兵士にしたのです。戦争下の緊迫した必要性の中で、農民たちは「士族」と同じ立場で戦うことになりました。まさに、「恩賜的民権」に通じるものがあります。この高杉晋作の「奇兵隊」は日本初の近代的な編成の軍隊です。また、高杉晋作の「奇兵隊」の原案は、師である吉田松陰から受けた「西洋歩兵論」の影響とされています。
高杉晋作のしたもうひとつの事件があります。長州藩内では江戸幕府に恭順の立場を取ろうとしている保守派の勢力が大半でした。それを、高杉は奇兵隊を率いて排斥し藩論を「討幕」にまとめ上げました。つまり、クーデターを起こして藩の方針を180度転換させてしまったのです。高杉晋作は肺結核のため27歳の若さで亡くなりましたが、日本史における彼の果たした役割は大変大きいものがあります。
日本人は、「自由」や「平等」の思想を自らの歴史の中で生み出してきませんでした。このことは深く認識しておくべきです。
幕末期の日本には、開国のどさくさの中で、西洋に倣った国民国家を樹立しないと列強に侵略されるという危機感がありました。そうした経緯もあり、幕府瓦解後に政府は国民に権利を下賜しました。学校教育ですら近代国家を作り、国力を高めるために国民の教育を推奨してきた感じがします。権利を与えられた方の国民も、自分で手に入れたものではないため自分の権利を主張することに対してとても控え目でした。日本人の基本にあるのは、未だ鎌倉武士のような「御恩と奉公」的な感覚です。
「お国のため」
「会社のため」
「滅私奉公」
この感覚は、つまり昔の「封建社会」の帰属意識。
「お国のために」と言って、自分を犠牲にする。
「会社のために」と言って、自分を犠牲にする。
与えられた役割を果たすことで、社会からの承認を受けて生活の安定と心理的な安心を得たいと願っているのです。人間は社会的な動物なので当然と言えば当然のことです。
夏目漱石(1867〜1916)は、明治期日本の代表的な作家で「こころ」などの作品で知られています。文学を通して近代的自我のあり方を追求しました。夏目漱石が1911年に行った講演に「現代日本の開化」という有名なものがあります。講演の中で漱石は、「西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である」としています。
西洋文明が自然発生的な文明の発展による「内発的開化」であるのに対して、明治日本の開化は外国文明の圧力によりやむを得ず開始された急激な文明開化である「外発的開化」ととらえています。この結果として、日本人は自己を見失って右往左往し、虚無感や不安の中に生きていると言っています。
果たして僕らは本当の意味で「自由」を求めているのか?そんな疑問が浮かんできました。
晩年の夏目漱石は「自己本位に基づく個人主義」という自説にたどり着きました。しかし、その上で尚、自我の確立とエゴイズムの克服という矛盾に苦しんだようです。漱石は晩年の1914年に行った「私の個人主義」という講演でこう言っています。
「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」
漱石は自己のために他の個人を犠牲にするエゴイズム(自己中心主義)を見つめ、エゴイズムを超える倫理観を追求して苦悩していたとされています。そんな漱石が最後にたどり着いたのが、「則天去私(そくてんきょし)」という境地でした。
「則天去私(そくてんきょし)
・小さな私を去って、普遍的な自然の命じるままに自分をまかせるという東洋的・宗教的な心境のこと。
夏目漱石は、近代的な自我の確立に苦しんだ末、運命に甘んじて、静かに一切を受け入れるという境地に至ったのです。
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