TAKRAM RADIO|Vol.240 言い淀みに現れる人の心〜計画外に「私」が訂正される
Introduction
J-WAVEのTAKRAM RADIO。近内悠太さんをゲストに迎えた、2週目の放送のメモ。
メモ
ケアの定義
渡邉:前回の体感は?
近内:互いの言語ゲームがわかるので、やりやすい。身体的なリアクションもわかり、セッションのよう。
渡邉:哲学者という肩書を他者から受け取ること、関西のアメちゃん文化はニュータウン発なのでは、他人への祝福、贈与は数年に一度のレベルであるがケアは日常に埋め込まれている、などなど。遡及して劇が変わることは、アートの解釈や無知の知にもつながる。文体のはなしが、人に語り掛けるときの近内さんらしさから出ており、また、アナキズムというキーワードも飛び出した。
近内:ケアとは、他者が大切にしているものをともに大切にすること、と定義できる。ドクターよりもナースのほうがケア的。身体が間違った状態を治すのではなく、処置をせずに本人が望む形で受け入れられる形を目指す。
ケアのきっかけになる悲哀・罪悪感
渡邉:ケアの語源は、古高地ドイツ語のcura(悲嘆・悲しみ)から来ている。悲しいできごとに心を寄せる状態は、語源にも通じる。
近内:傷を負うタイミングは、自分の大切なものが棄損されるときと、自分が大切なものを大切にできなかったとき。悲しみという感覚が、最も紐帯のようにはたらく。どうでもいい人に対しては、悲しめない。
渡邉:他人の悲しみとどうつきあうのかは大きい問題。かけられる言葉はあまりなく、「時間が解決する」といってもその瞬間の当人には意味を持たない。
近内:宮地尚子さんの『傷を愛せるか』。パートナーを失った友人の葬儀に参列して、見届けることはできると思えた。
渡邉:赤ちゃんが泣くとき、泣くことによってアテンションを求めることがある。
近内:ケアは、関心を寄せることでもある。そこまで気負わずに、自然とケアできているのでは。
近内:他者の傷に導かれて、思わずケアして”しまう”ほうが信頼できる。
渡邉:予定と外れる。
近内:予期せぬものは、現代では悪しきものと扱われるが、予期しないものがないと退屈するのでは。予期しないものは、他者との邂逅から起こる。
渡邉:ケアから端を発するのが面白い。『利他とは何か』の伊藤亜紗さんの論考にも、利他の最大の敵は、他者をコントロールすること、とある。行うことで意外なリアクションがあり、自分が書き換えられること。論の展開で、似ていることと違うことは?
近内:計画・意図するもののなかには、人間的なものが出てこないという近代の主張があるなかで、ただし、人間は機械的ではないことに気づき、人間のどうしようもなさにこそ愛おしさがあるという議論だと感じる。
渡邉:クリエイティブディレクションには意思決定が必要であるが、チームに提示するのが下手。個人的にはどちらかというと影響を受けたいので、目標を逸らせることに喜びを感じる。自分のクリエイティビティだけに信頼を置くことが間違っているのではとも思う。近代のマシンぽさに限界があるという現代的な視線には同意であるが、自己変容が理想的にできるわけではないとも思う。他者から影響を受けて、うまくいかない場合も多々ある。後から、それでもよかったと切り替わることもあるが、当時はわからないので、他者との邂逅によって自分の予想の外に人生が漏れ出すことに喜びを感じることは同意であるが、それにはより大きな傷とダメージを伴う、とはまだ誰も言ってくれていないのでは。
近内:今の世界を癒せるものは、宗教と文学だと思う。本を書いてみて、ものがたりで人を救うことは無茶な設定だと思った。河合隼雄は、個人のものがたりをつくることで救われると説くが、どれくらいの労力で自分のものがたりをつくれるかは難しい。宗教社会学的には、宗教の機能として死後の世界を語ることが大きい。理由がわからないこと・不条理が最大の苦しみであるときに、宗教では前世・来世などを紐づける物語があり、因果が提示される。個人による自分の傷の語り直しは、万人が必ずしもできるわけではない。
渡邉:幸運な出来事に巡り合えるか、また、幸運なものとして意味の配線を変えられるか。
近内:ものがたりを聴いてくれる人がいることが必要。
過去の定義を乗り越える
渡邉:近内さんのシラスの映像を思い出す。後半の議論で、ケアについての近内さんの表現が揺らいでいることに触れていた。一部の人からは定義しろというつっこみがあるかもしれないが、一言に換言できないことが面白いと明言していたことが興味深い。不条理さを受け止めている、かたや頼もしさとかたや投げ出している感じがある。定義するというシステムに乗っからないアナキズム的振る舞い。
近内:絶えざる自己彫刻。哲学は、過去の自分を訂正する営みである。永井均さんは、哲学と思想をわけ、哲学は「誰がどう言っていた」ではなく、自分でつきつめる運動であるという。
言い淀みに現れる人の心
渡邉:鷲田清一の『「聴く」ことの力』では、聴くことの先にケアが広がるという。冒頭に面白さがあり、エッセイという文章の形態について語る。フランス語の「試す、試みる」を意味する動詞essayerの名詞形であり、「試行」「試論」の意味もあるEssay。エッセイは、歴史的には、正統な文章の形態と認められていなかったが、その弁護から入る。この方法でしか語りえないものがあるのだ、という第一章の記載が面白い。システムから外れること、あえて定義しないこと、文学が人を救う、というすべてのテーマに通ずるのでは。
近内:言い淀みにこそ、その人らしさが表れる。言い切るネット・SNS上では暴力的であるが、対面では柔らかくなる。身体が目の前にあり、殴りかかるリスクがあるので言葉が柔らかくなるが、話ができていることから謎めいた信頼・連帯が立ち上がる。自身の著作も試論であり、決定版ではない。あくまできっかけとして、読者に入ってきてもらうための書き方であるため、言い切れなさが前面に出てくる。
渡邉:X上で言い切る態度と、対面の試す態度について、Prove(証明)とProbe(探索)があるのでは。とある認知心理学の調査で、人が思い出しながら語る方法を調べた。ラーメン屋の内装が変だったとき、「カウンターが意外に短い」「ギリシャ風の白い柱があった」という場合、Probe的に一度言葉に出して試してみている状況がある。
近内:一生懸命でもたどたどしい言葉を聞いてしまうのでは。聴くことをアフォードする表現なのでは。
環境から生まれる知的行動
近内:ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス。椅子は、座ることをアフォードしていると考えると、私との相互作用となる。人間関係のアフォーダンスを整えることで、気がついたら癒されている仕掛けがありうるのでは。うなずく回数を増やすことで、対話量が増える。
渡邉:環境のなかに知が芽生えるという話がある。『弱いロボット』もケアをひらくシリーズ。アリが6本足でバランスよく歩くとき、でこぼこの環境との関係性のなかで、知的な動きが発生している。探り当てながら話すという調査のはなしも同じ本。パラアルト研究所のなかで、いかにインタラクションの設計が深まっているのかというはなしもある。
近内:ロボットは、中枢がなくても意外とうまく動く。
渡邉:意識は、行為のあとに生まれる。ミクロの神経系のはなしと、マクロの物語のつくりなおしがつながる。
アフォーダンスの設計とその影響
近内:アフォーダンスにより、人が思いがけず動く事例はあるか。
渡邉:ストックホルムの地下鉄だかで、健康のために階段をつかうとき、ピアノのキーボードに見立てて音が鳴り、上ることが楽しい状況をつくる。レッシグがいうアーキテクチャにて、人を導く。
アフォーダンスの危うさと自己決定感
渡邉:Googleがカナダに構想する超スマートシティでは、つねにセンシングされているが、一方でそれを求めないのが人間では、という指摘が入り頓挫する。ストックホルムの階段のように、遊びが入っていることが面白いことで、自ずとその行為を始めてみて、考えてみればよい。キーボードが撤去されても階段を使い続ける人がいることに賭けているのでは。
近内:宗教と文学とは、アフォードされる形が変わることとも言えるのでは。ドキュメンタリーを観て、募金箱がアフォードしてくるように感じる。宗教施設もアフォーダンスが強いために、鳥居をくぐると歩きがゆっくりになるのでは。奈良の空海展で、空海が現代でいうディレクターのような人だと感じた。法具で部屋に結界を張ることで、アフォーダンスも変わる。空海は、日本の宗教におけるアフォーダンスを変えた人であり、自ずから救われる要素を感じた。
渡邉:Webのデザインは、ABテストの研究がされまくっている。公共政策にも生かされるのが現代社会であり、投票率や貧困対策向けのアーキテクチャにも生かされる。ノーベル経済学賞のリチャード・セイラーや、「ナッジ」を提唱したキャス・サンスティーンの『ナッジで、人を動かす』。後押しするというと聞こえがよいが、人をコントロールすることとも近しく、危うさがある。どこまでは倫理的にありか、を考えるのかが大事ではある。
近内:自己決定感をどこまで持てるか。
渡邉:他人から影響を受けたり、アフォードされることはよいが、自立性が担保されている状況をつくらないとよくない。
近内:自己決定感を持ち、自分の人生であると思えることは、必要な側面。
渡邉:オートノミー・自立性の担保を保証する必要がある。
リスナーへの「問い」
近内:人生で出会った、予期せぬものとは? できれば、邂逅としてよい方向で形づくったもの。問われることで、物語がアフォードされることはあるのでは。
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