10年前の3月11日

今日で2011年3月11日(金)に起こった東日本大震災から10年が経った。私の中では「もう10年も経ったのか!」という思いである。これは歳をとることで自分が感じる時間経過が遅くなっているというのももちろんあるだろうが、10年前に起こった災害が地震や津波といった自然災害だけではなく、原発事故とそれに伴う放射能汚染を引き起こした複合災害であり、それが未だに解決していないため過去の出来事として受け止めることができないからだと思っている。

今日は10年前のこの日のことを書いてみようと思う。当時の史料くらいにはなるだろう。

この日は東海村に住む大学時代の友人が仕事で上京するのでせっかくの機会ということで一緒に飲み行く約束をしていた。仕事もその予定に合わせて進めていたので午後にはもう処理の目処がついていた。

「もうすぐ3時休憩だな」と思って背伸びした14:46に激しい揺れが起こった。咄嗟に机に下に潜り込んで揺れの収まりを待った。過去にも職場で地震があったときにはすぐに机の下に潜る私は職場内の嘲笑の対象だった。しかし今回の揺れは激しく簡単には収まらなかった。そのため職場の同僚たちには私を嘲笑する余裕はなく、そのうち悲鳴を上げ始めた。机の下に潜っていた私も収まらない強い揺れに身の危険を覚え、携帯電話(当時はガラケー)を取り出して妻にメールを打った。「この揺れヤバいかも」と。

その後揺れは収まったが、当時の職場は高層ビルでゆっくりゆっくりとまだ揺れていてまるで時化の海で船に乗っているようだった。

ひとまず大丈夫かと思って机の下から体を出すと、職場の風景は一変していた。複数の複合機が転倒し、書類を収納していた棚から書類が大量に散逸していた。

職場の上層部も事態が尋常ではないことを理解して、次のような指示を出した。

1.今日と来週月曜日期限の案件を抱えている人はその処理優先

2.それらがない人たちは職場の現場復帰

私は1に該当したのでまずそれを片付けてから2の手伝いをした。

手伝っている間飲みに行く約束をしていた友人から電話。電車が完全に止まって約束の場所まで行けないとのことだった。今日はもう止めた方がいいだろうということでキャンセルした。その後当時の職場の入っていたビル内にある予約した店にキャンセルしたい旨電話した。するとその店は今日は営業できない旨伝えてくれた。地震で火気が使えなくなったのだとのことだった。どうやら同じビル内の他の店も同様だったようだ。

手伝いも一段落したのでもう帰ろうかと思ったがなんとJRは終日運休で他の私鉄も運転見合わせとのこと。当時はJR1駅+私鉄だったから1駅歩けば帰れると思ったがそんなに甘くはないらしく、首都圏のターミナル駅は大変なことになっているとTVを見ていた妻が教えてくれた。同じ沿線に住む元同僚が家族に迎えに来てもらおうとしたが渋滞がひどいことになっているとのことだった。帰宅は無理かもしれないと思い始めた。

しょうがないので事態が進展するまで仕事でもしようということになった。そうしているうちに夕刻になったので職場の人に声をかけて一緒に夕食に誘った。この時点で事態の深刻さを理解した人で徒歩で帰宅できる人たちは帰路についていた。地震でエレベータは停止していたので、職場のあった32階から1階まで徒歩で降りた。しかし前述したようにビル内の飲食施設は火気厳禁ということで営業している店はわずか数店舗しかなく、しかも電子レンジで温め調理する料理しか出せないとのことだった。それでもないよりマシということで先輩弁理士と私は食べることにした。お互いしばらく帰れないだろうと思って色々と話をした。そのときに震源地が福島であることを知り、私は原発が心配ですと言った。

また職場で長い時間過ごすことになるだろうからコンビニで何か買って帰ろうということになり、近くのコンビニ行った。そこには長蛇の列ができていた。缶ビールとつまみを買うのに15分近くかかった。

その後1階から32階まで徒歩で登った。気分は登山である。私たちの前にも後にも結構な人たちがいた。同じ職場の人を見かけると「大変ですね」と声をかけた。人間関係の希薄な職場でもこういうときにはお互い声をかけるのだと思った。ただ黙々と独りで登るとやはり福島の原発のことが気になってきた。当然緊急停止するだろうがそれで大丈夫なのだろうか? そんな不安が頭から離れなかった。

やっとの思いで32階についたら同じ部署の人たちが酒盛りをしていた。しかし私は福島の原発のことを思い出して輪の中に加わる気にはなれず独り自席で飲みながら仕事をしていた。

そのうち当時の同僚が「なおすずかけさん、こっちで一緒に飲みましょう」というので飲むことにした。他の人と一緒にいても福島の原発のことが頭から離れなかった。忘れようとして酒を飲んだ。疲れもあったのかすぐに酔いは周り気がついたら朝になっていた。電車が動いていたので帰宅した。家に着いてTVを観たらホウ酸水が原発に注入されていた。中性子を吸収するためだろうが、つまりは制御棒が作動しないか制御棒では臨界を制御できない状態になっていることを理解した。終わったと思った。実母に大変なことになるかもしれないとメールした。

「終わった」と思ってから10年経った。今でも生きているという意味では助かったのかもしれない。しかし「終わった」という思いは未だに払拭できていない。もしかしたら死ぬまで払拭できないかもしれない。

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