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家族愛を”ノロケ”等と揶揄する文化は早急に滅びればいい

彼と出会ったのは十九歳の誕生日を迎える寸前の冬であった。もう今から一五年以上前の話である。

当時、東京の大学に入りたてだった私と、遥か遠くの愛媛県の大学院で修論研究の真っ最中だったマッチョが出会ったきっかけは、京都にいる共通の知人を介してのことであった。出会ってすぐに酒を浴びるように飲み、べろべろに酔っぱらった筋骨隆々のマッチョに、共通の話題もあまり持ち合わせていない私はとりあえず「なに年?」と干支を聞いた。すると彼は申年だと答えた。

「申年っぽいよね。木とか登れそう」「登れるよ、あの電柱とか」「嘘でしょ?登れるもんなら登ってみてよ」

マッチョという人種は往々にして負けん気が強い。彼は私の挑発にチャレンジ精神を刺激されたのか、我々のすぐ近くにあった、獣の小便の匂いがぷんぷんする電柱に躊躇なくとびかかり、あっという間にてっぺんまで登り切った。その時彼を照らしていた中途半端に欠けた月と街頭の光は、スポットライトとは程遠い薄暗いものであったが、”見て見て!”と私たちを見下ろしている彼の表情は眩しかった。初めて木登りに成功したばかりの五歳児のように無垢である。それを見て我々はゲラゲラと笑った。過保護に育てられた田舎から、都会に出てきたばかりの筋金入りの箱入り娘だった私は、こんな子供のような大人をあまり見たことがなかった。

その後、電柱に上った彼が職務質問にあったかどうかは、記憶があいまいで、よく覚えていない。読者の皆様はどうか真似をしないでいただきたい。

十五年前と言えば、SNSもまだあまり発達していなかった時期である。京都でマッチョと別れてからは、連絡をとる手段は限られていた。それでも、お互いそこそこコンピュータに強かった我々は、当時流行していたアバターチャットとか、スカイプとか、MSNメッセンジャーとか、mixiとか、中年には馴染み深いと思われるツールをフル活用していた気がする。

付き合うとか付き合わないとかいう話をした記憶は一切ない。もう出会った時に、言葉に出さなかったが、私とマッチョはお互いの思い込みの中で付き合ったことになってしまっていた。よく考えると恐ろしい話だが、若さとはそういうものではないか。濁流にのみ込まれるように、全てが成り行きのままに進んでいくだけの日々だった。毎日のように、ダラッダラとスカイプで何時間も話した。

何時間も話す中で、彼がギャンブル狂の父親の元に産まれ、借金取りがうるさく戸を叩くから毎日のように眠れない夜を過ごしていたことを聞いた。ああだから不眠症なんだ、と納得がいった。だから私は、両腕上腕までザックザクのリストカッターのいる大メンヘラ一家で育ってきたことなど、パンチの効いたエピソードを返した。ああだから現実と虚構が入り混じってんだね、と彼は理解した。お前の父ちゃんは稼いでるじゃん、とか、あなたの家族は血みどろじゃないでしょ、とか、笑いながらジャブを出し合っていた。

お互い負けん気が強いから、不幸自慢みたいになっていたが、こうやって客観的に振り返るとだいぶディープな話をしたと思う。正面切ってそういうことを話すのは恥ずかしかったけど、インターネットを介して、勉強とかしながらだと独り言みたいに話せたし、そうやってお互いの心の傷をおおごとに捉えず、ユーモアに変換できる関係はありがたかった。我々は日々話しながら、傷を癒し、お互いの理解を深めていった。

大学院を出てからの彼は、地方公務員になり、アマ格闘家としての活動も続けていた。でも、家庭の事情で東京を離れられない私のために、死ぬほど勉強して国家公務員に転職してくれた。転職したはいいけど、地方に飛ばされたりして、七年くらいはほぼネットで話すのみの遠距離恋愛が続いた。その間、彼も私もいろいろあった(と思う)けど、なんやかんやで彼は関東に転勤が決まって、同棲することになった。

同棲する時には、もう近年中には結婚することになっていた。彼が私と結婚を決めた理由はよくわからないみたいだし、私も正直よくわからない。でも、メールのやりとりなど振り返ると、二十歳の時にはもう結婚を決めていたのは確かである。この年になると「どうしてそんなに早く結婚を決められたの?」と、よく聞かれる。そう聞かれた時に淀みなく答えられるよう、彼は努力家だとか、音楽の趣味が合うとか、無理やりの理由は用意している。でも本音を言えば、ただ一緒にいて心地よいと言う事が一番だ。その理由は「声のトーンが合う」、その一点に尽きるのだ。

同棲を始める前に一度、挨拶をするために、愛媛にいる彼の母親に会った。初めて会ったその人は、昭和のアイドルみたいな透明感を持った、とてつもなく綺麗な人だった。少し話して、私もお義母さんもうるさい場所は苦手で、誰もいない静かな自然が好きだということがわかった。だから山の上のきれいな滝を見るために、はあはあ言いながら山に登って、”この日のために特別に用意した”と言ってくれたコーヒーを三人で飲んだ。人生で一番美味しいコーヒーだった。そしてお義母さんも、私の声を”いい声だね”と、褒めてくれた。勤務先で、聞き取りづらい、発声練習をしろ、腹から声を出せ、と叱られまくっている私の声を”心地よい”と褒めてくれたのは、お義母さんが初めてだった。お義母さんの声も、とても静かでおだやかな、染み渡る声だった。

ああ、似たような環境なんだな、と思った。虐げられている人間は大きな声は出せない。理不尽な暴力にさらされないよう、なるべく自分を殺すように生きる。この人とならきっと分かり合えると、うまくやっていけると、その時は感じていた。

2011年は最悪の年だった。お義母さんには癌が見つかって余命宣告をされた。私の実家は地震で被災して、大切な人を失う羽目になった。そしてしんどさを慰め合うように、我々は入籍した。二十五歳になる年だった。お義母さんは結婚式には来られなかったけど、一年後には孫を見せてあげられた。初めて孫を見せた一か月後にお義母さんは癌で亡くなった。

「なんで死ぬべき人が生きてて、死ぬべきじゃない人が死ぬんだろうな」ということは、幼少期からずっと疑問に思っていた。世の中が地獄だなんて、とっくの昔に悟っていたはずだった。邪悪で腹黒い我々は、世の中が地獄であることを、ネットで電話をしながら笑い飛ばしていた。悩んでも仕方ない、運命は受け入れるしかないのだ、と。

それでもやっぱり大切な人が天国に行くのは寂しかった。いくら我々が邪悪でも、笑い飛ばせないということはある。棺の中に眠る祖母の顔を不思議そうに見つめる赤ん坊の姿を見ていたら、やるせない気持ちになった。でも、同時に、この出会いに心の底から感謝している自分もいた。沢山の花に囲まれたお義母さんの姿はやっぱりアイドルみたいに綺麗だったし、理想の人間で、理想の母親だった。その時、私は夫と出会えて、結婚してよかったな、と痛感した。それは彼との結婚が与えてくれた、決して忘れられない、あまりにも尊い出会いと別れだった。

その時の子どもも成長して、もう小学校も半ばに入った。上の子は、こんなに邪悪な夫婦に育てられたとは到底思えない、極めて優しくて真面目で賢い優等生に育った。まだ幼稚園の下の子は、父親に似て木登りが得意で、ちんちんを出しながら傍若無人に暴れまわるような子に育った。どんな風に育とうとも、我々の大切な子どもであることに変わりはない。

全てのきっかけを作った、電柱のぼりの不審者マッチョは現在どうなっているか。結局ほぼ何も変わっていない。未だにマッチョ公務員であり続けている。ただ、フィールドは格闘技から自転車競技に移った。

ここからは夫自慢である。彼は毎朝三時に起き、出勤前に一時間半ほど自転車を漕いでいる。帰ってきてからご飯を食べて筋トレをして、子どもたちと共に九時に寝る生活をずーっと続けている。世はマッチョに対する偏見が相変わらず強いが、マッチョはおしなべて、信じられないほどの努力家なのである。努力が実り、アマチュアのロードレーサーとしての地位も確立しつつある。慣れないクリテリウムのレースでは落車が多いのだが、本人は傷を引きずることも無くカラッとしている。そして相変わらず木登りは得意で、たまに降りる時にカッコつけて腰を痛めたりもしている。

まだまだノロケは続く。彼は天才的に料理が上手く、お義母さん直伝のおでんも、練り物の煮物も、栗の渋皮煮も、お手製のサラダチキンも、全部私が彼から教わっている有り様なのである。お義母さんが死ぬほど料理上手で、それをずっと見てきた彼がその技術を引き継いでいるというわけである。家事大好きの超A型の彼が仕事をしていて、決して家事が得意ではない超B型の私が主に家事をしている現状には、確かに違和感がある。「なおちゃんが稼いで俺が主夫になればちょうどいいのにね」、彼も言う通り、体裁をすべて捨てれば、本質的にはそちらの方がしっくりくる。専業主夫に対する偏見が徐々に薄くなりつつある世の中だ。数年後には立場が逆転しているかもしれない。

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(彼の性格を説明すると、刺身についている菊の花を二カ月大事に枯らさずに水替えをし続けられるような人。私は一週間で枯らしてしまう。)

そんな風にうちの家族は作られ、育ってきた。そのすべてのきっかけを作ってくれたマッチョ旦那が昨日、四十一歳の誕生日を迎えた。今となっては、

「なんで結婚したんだっけ?」「…忘れた」

と言い合うのみの、ロマンチックの欠片もないパートナーシップではあるが、育児と言う途方もない壁に立ち向かう仲間、いい大人の癖に共に子供じみた挑戦を続ける”共犯者”として、今後とも関係は続いていくと思う。

まあ、なんていうか結局、私の家族、私の世界を作ってくれて、沢山の出会いや経験をさせてくれた私のパートナーって、世界一尊くない?っていう話というわけだ。

身内の謙遜が美徳だなんて価値観、どこで植え付けられちゃったの?全人類、アルコ&ピースの平子夫妻のパートナーシップを見習うべき、です。

(…勿論幸せなだけではありませんよ?死ぬほど色々ありますよ。家族なんだから。この記事が誰かの心の傷を抉ってしまっていたり、イラっとさせていたらごめんなさいね。苦情も含めて、お気軽にコメント下さい。)


以~、上!!

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