夢物語

書籍「狩られるものの生活」の中でシートンが、トビネズミの生態に感動し、こんなことを書いていた。

今でも時々、愚鈍な人々が、妖精とか小怪物というものは、特別の生き物だ。などと話しているのを聞くことがある。そういうとき、私はいつもこんなふうに考える。
「あなたがたは、高原に月がさしのぼる時、コランポー河のほとりにたたずんだことがないのだ。
夜の河はうねうねと流れ、月光を照りかえす河の面がキラキラと光り、月光が丘を明るく照らしだし、影を水色のベールに包むときの光景を知らないのだ。、、、
ーあなたがたはそういうすばらしい光景を、一度も見たことがないのだろう。
それはあなたが秘密の部屋のとびらを開く鍵を持っていないからだ。
たといその鍵を手に入れても、まだ疑うかもしれない。全てが夢物語だというかもしれない。」

これを読んで、3年前のことを思い出した。


2021年、ニュージーランドのダダっ広い牧場で働くのにも慣れてきた頃、冬の風が痛い早朝、顔をジャケットにうずめ、牛をバイクで集めながら、自分の手のひらが赤く染まり出したのに気づき、とっさに顔をあげた。

夜のつぶらな輝きたちが少しずつ動いていき、１秒顔を上げるごとに、赤やらオレンジやらピンクやら紫やら変わる雲と朝日のコントラストに、今日も変わらずまた仰天し、忘れたくはない、とかじかむ手でこれを綴った。

「自分に今ある情報をなにもなくこれを見てしまった時には、それは何か偉大な、到底人間にははかりえない、大きな存在がそれを作り出したとしても、なんら不思議はない、それぐらい美しく、偉大で、不思議で、妖艶だ。
昔のひとがこれを見たときに、なんらかの魔法や神様の仕業だと思ってしまっても責めることはできないな。

そんな世界に私は住んでいるんだ、夢の中に生きているようなことが全て事実で、現実なんだ。」

その感覚は、私を新しい感情へと導き、牛と私とその景色を目の前に、誰もいない牧草地で、どっと涙が溢れた。
嬉しいのか、悲しいのか、感動なのか、嫌なのか、なんで泣いているのかわからなかったけれど、初めて自分の心が何かを感じた瞬間だと思った。
それがシートンがいう、「秘密の部屋のとびらを開く鍵」だったのだ。

だけれど同僚は誰一人として、そういう景色に感動し立ち止まっていることはなかった。
これが目の前に起こりながら、そんなものは何にも得にならないと、見ないようにして理解することを諦める社会を生きているのかもしれない。

もしかしたら、いつかその感覚が飲み込まれ、なくなってしまうのではないかと急に怖くなり、

それからというもの、その感覚を追いかけるように、生きた。

それでも、立ち止まれば、それはそこらじゅうに溢れているのだった。

人が到底生き得ないような雪山の麓で、遠くの雪の塊がが斜面を滑り落ちる振動を、全身で感じながらテントで眠りに落ちた時にも、

初めての出産を迎えた母牛が子牛を守るために、当然のように自分の命を投げ出し、私に向かってきた時も、

毎朝、毎晩、鳥たちが木々の間から、自由に奏でるその立体的な音を360度各方面から聞く時も、

はたまた誰かが、その類の話をする時だって、

そして今も、木漏れ日の中で春のそよかぜに揺られる木の葉の輝きを見て、

変わりゆく季節と、そこに伴い進んでいく、自然の営みに、
その間に生きる、様々な生き物の生き様に、

私は、一度信じられず、信じてみてはその美しさに毎回いちいち驚き、涙ぐむのだった。

美しく、摩訶不思議で、到底、かないっこない。

それをいとも自然の成り行きかのようにやってのけてしまう。

それが、自然なのだ。それが、生き物なのだ。

その感情は私を、一人間としてどれだけちっぽけか思い出さし、何度も謙虚にいさせてくれる。それでいて、一生き物として、そこに回されてる自分に少しの誇りを与えてくれるのだった。