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day152 優越感、劣等感は平和的利用するほうがいい。

子どもの頃から、誰かと比較されて上位を目指すことを目標として生きてきた。というより、教育そのものがそんな感じだった。

勉強で、運動で、コンクールや大会で。クラスで、学年で、県や全国で。
さまざまなところで誰かと比較されてきたのは、きっとわたしだけではないと思う。

色々と世のことわりを学んで気づいたのは、比較そのものには何の問題もないということだ。

絵が上手い人、足が速い人、理科が得意な人、そしてそれぞれについて苦手な人がいる。
それ自体は別に、世の中的にごく当たり前の世界だし、得意なことで誰かと競うのは、勝っても負けても清々しいものだと思っている。

問題なのは、不得意なことを誰かと比較して落ち込む、または逆に不得意な人を馬鹿にすることだ。

比較とは、コントラストだ。そしてその違いがあるからこそ、互いを尊重できる。


比較して優劣を付けたがったり、またそのことで優越感や劣等感を持ちやすいのは、自分とそんなに差のない相手、または自分が勝手に自分より下に見ている相手だ。
デザインの仕事をしていて、世界的に活躍している人を見ても劣等感は湧かないが、地元で活躍している人を見ると落ち込んだりもした。

優越感も劣等感も、根本的に『ない』に目を向けている。
自分と相手、どちらかが持っていて、どちらかが持っていない。その差が優劣になるのだ。

比較的近い相手に違いを感じること、それ自体は悪いことではない。でもそれを、自分責めや他人をおとしめるために使うのは(敢えてジャッジメントするなら)悪いことだ。

自己肯定感の記事でも書いたけれど、優劣の優のほうを100点にしてしまう、ということにつながる。
あいつはまだまだ、とか、あの人に比べたらわたしなんて、みたいなことに優劣を使うくらいなら、平和的利用をするほうがいい。

平和的利用とは『伸びしろ』だ。
比べて落ち込む、比べて喜ぶというときは、自分や相手にまだ伸びしろがあるという捉え方ができる。
特に劣等感の場合、相手に憧れを(無意識的にでも)抱いているはずだ。ということは、自分もそうなりたいし、そうなれる伸びしろが存在していて、その部分が刺激されていると言える。
優越感を抱いている暇があったら、相手が伸びしろを縮めてくる前に自分の伸びしろを育てろということだ。


比較によって生まれる違いはあくまでもコントラストで、それぞれが尊い。数学が苦手でも英語が好きならそれでいいし、最低限受験に困らないなら、あとはどうでもいい気もする。
現にわたしは世界史も日本史も超絶苦手で、数学も苦手だったけれど、今それで困っていることなど何もない。

自分の劣等感を上手く変換すれば、自分にも他人にも愛をもって接することがきっとできる。

まとまりがないからあとで加筆修正するかもしれないけれど、今日はこの辺で。

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