「唐十郎」通夜の赤い靴下

佐助さんの赤い靴下 


5月の半ば 一日中ふり続ける雨の中、唐さんのお通夜に自宅の横須賀から丸の内線の「新高円寺」へ。駅から、斎場に行く道すがら、唐さんの劇団にいたらしい人たちが何人か先を行く。二つの劇団を合わせると半世紀以上集団で上演してきた人だ、その影響は広い

通夜にふさわしく失礼がないように、でも礼服がないから、とにかく黒にしましたと生地も色味も上下バラバラ、でも黒づくめの若い女の人も

駅から5分くらいで斎場近くらしく寺町になる
会場に入ると既にお別れを終えた渡辺えりさん、木の花さんの顔も見える

三十数年前、わたしが劇団にいた頃、唐さんは「えり子の書くモノはすごい」と言っていた。たしか、演劇学校の頃に書いた、朝顔(男性用便器)で金魚を飼う お掃除のおばさんの話を何度か聞かせてもらった。
押入れの中から美少年が現れたり、思いもつかないことを書き演出するえり子さんが、唐さんのお気に入りなのはよくわかる

通夜の会場では、香典を手にした参列者は、唐組や唐ゼミの団員たちの案内にそって進む
祭壇近く、奥から喪主の美和子さん、美仁音さん、佐助さんと並ぶご家族へお悔やみをと進む

あっ佐助さんにの靴下が、赤だ。喪服の黒に少しだけ綺麗な赤が差し色。普通、赤は祝い、通夜の場には不似合い、まして父親を送る場だけど、ここではピッタリ。
唐さんは紅テントの魔神。
祭壇写真の唐さんの暗幕のような黒い服の襟元は、濃いエンジのような赤が入っている

唐十郎の世界、通夜でも紅。通夜の劇場で息子としてのふるまい
佐助さんには、その場にいる人をふとすくい上げる、唐さんのシャレ心の遺伝子だろう


思い出したのは、隅田川ベリの景色


1988年の「下町唐座」の地鎮祭の時、唐さんは鍬入れに「エイサ!エイサ!」と声かけ、かしこまった場を笑わせてくれたっけ

それにしても祭壇の写真は全く唐さんらしくない、少しかしこまって厳しそう
死去後にメディに流れる唐さんは、颯爽として、人懐っこい笑顔が多い
2012年5月、病に倒れて笑顔どころではなかっただろう。そのあとの大変さは分からないけれど、テントでお見かけする時はいつの間にか表情が戻ってらした
 


はて、ほんの数年劇団にいただけの私は、どんな唐さんを知っていたんだっけ?


唐さんが亡くなってから数ヶ月が経とうとしています。この間、いろいろな人が、それぞれに出会ってきた唐さんは、それぞれの人に影響を与え、それぞれの時代の標的でもあったと思う

そうだ、1988年唐組スタートから、私の見知っていた唐さんを書き留めておこうと思う
1988年下町唐座『さすらいのジェニー』唐さんの姉役で舞台に立つところから始まり、終わりは1989年、30歳の時『電子城』自分の為に、当てがきしてもらった役を投げ、歌を捨て、公演前に劇団を遁走し、行方をくらませた


それにしても不思議だな、この斎場には縁がある
5年前の2019年の7月の暑すぎる日も居た。元の夫を送ったのもここだった。

私たちの離婚の理由は、私が劇団を辞めたこと
公演前に遁走し、役を投げ、逃げ出したのは劇団だけでなくて夫からもだった

家出した時、夫が真っ先に頼ったののは唐さん
「ナオミがいなくなった」と泣きながら駆け込んできたぞと、後に許されてまた唐さんの元のように顔を出せるようになってから聞いた

唐さんは、亡くなった夫のことを「マスイの旦那さん」と呼び、気にかけてくれていた。唐さんのお父さんが映像プロデューサー、夫はディレクターだったからか

いつかのお正月に、わたしたちが揃って再婚してからの、新居にご挨拶に行った時
「旦那さんも来てくれただから、哲のカニ出してあげて」
と、あの山崎哲さんからの頂き物、立派な花咲蟹をお相伴した。その場にいらした義丹さんはまだ大学生だった

そのシーンで、覚えているのが、夢中になってカニを食べている夫を見て「ご主人は、実は獰猛なのでは?」と
確かに穏やかのんびりタイプではないが、流石にドウモウほどではない
唐さんは、みたものの観察から何かしら別の物語がでてくるらしい
稽古場でも、身体の動きの変わっていた劇団員を「あれは舞踏だぞ」と面白がる

劇団に入るきっかけは、「下町唐座」の情報を知った1988年頃のこと

時代はバブル期、セゾングループがバックアップ、安藤忠雄設計、隅田川べり浅草公園に台東区の協力もあり大手デベロッパー建築された仮設劇場
黒い板塀で堂々とした姿、入り口までに太鼓橋があり、お客さんは、そこを渡ることで日常から芝居の空間へ入っていく
柿落としは、唐十郎の新作『さすらいのジェニー』石橋蓮司、緑魔子、柄本明、上演する特別な劇場!

というようなことを知り、その『下町唐座』が劇団員を募集していることも知った

私の受け止めは、おっ、なになに、唐さんの新作『さすらいのジェニー』をやるために隅田川べりに大きな劇場ができて、蓮二さん、魔子さん、柄本さんが出る!
なんだかすごい面白そー
しかし、募集している人の名前は「大鶴義英」 んー知らない

その時の私の状況は、三十ちょい前、新卒で入った黒テント系の出版社「晶文社」を「芝居やります」とやめていた。なのでまずは、所属する劇団を探していた
もちろん唐さんの『状況劇場』はみていたが「あそこは、獰猛な肉体でないともたない強烈な場所だと思い、自分の候補には無理と入れてない


そこからが大いなる誤解!
そうか「下町唐座」に入れば「状況劇場」のような怖い場所ではなくても唐さんの芝居ができる
そうだ「大鶴義英」さんが「唐十郎」の許可を得て新しく劇団を立ち上げたんだ


ここなら、やりたい芝居ができると勇んで応募した

そのうえ驚いたことに稽古場の試験会場が、わたしが住んでいる「東高円寺」
東京にどれだけの駅数があるかは分からないけれど、どんぴしゃなのは呼ばれている感があった

試験の日、水道工事店の二階へ上がると、そこにいたのは唐さん本人!
もうびっくり
はい、「大鶴義英」は唐さんの本名だった

唐さんのご飯かがり

状況劇場をやめて、唐組を立ち上げ、下町唐座の劇場空間へ登場する頃の唐さんは
稽古場近く白くて綺麗なワンルームに住んでいた
そこは、再婚に備える住まいが見つかるまでの仮住まい
唐さんの住まいが稽古場の近くなので、ほぼ毎日のように稽古場に集まり、30人近くの劇団員と遊びに来てくれたお客さんは、
ほぼ毎回のように稽古終わりに宴会だ

のみがない時は、唐さんの部屋に、私と演出助手のHのりこがおじゃまして夕食を作り3人で食べることもあった

食事作りの始めは、買い出し。唐さんの気に入りの食材を探しに、三人で、近所のニコニコ通り商店街へ
唐さんは抜群の目利き。どの店に寄ってもその度に、素早く良いモノを選ぶ
特に気に入りの魚屋の店先では格別なのには関心した

味付けなどは、うるさくないけれど、食べたあと、すぐさま片付けるのが流儀。
何につけても、もたもたしたことは嫌な様だった。

そうだ、一度だけ、稽古終わりに何故か「みんなでマスイの家へ行こう」
ということになり、いつものようにニコニコ通り商店街で買い物をして、私が結婚したてで暮らしていた木造階段の西陽が当たるアパートに来てくれた

劇団員で手分けして下拵えをして、唐さんが、自ら台所に立って何やら作ってくれた。
その様子に劇団員たちは「唐十郎がフライパンを!」と呆気にとられていたっけ。

ウチには一度だけだが、稽古の後、時々出かけたのご近所のM竜士さん(いまは京都造形芸術大学教授)の昭和のそれも初期のようなアパート。

「こういう部屋が落ち着くんだよなぁ」と。確かに紅テントのセットのような空間。


おつかれさまの、酒宴、『唐組』の立ち上げの『さすらいのジェニー』の頃は、主演の「魔子」さん、「蓮司」さん、「柄本」
さんもいらしていた、宴会で唐さんは、いいちこの水割り片手に「なんかやってよ」と声をかける。
そのリクエストに、劇団員は応えアピールするべく、持ち歌を備えた。 
かつては「小林薫」さんも「そして神戸」だったか「襟裳岬」だったか?を歌ったらしい

ある時のリクエストにその場にいた「柄本」さんが『和歌山ブルース』を披露してくれた
その立ち上がるタイミング、選曲、歌いっぷり全てが柄本さんだった。
わたしのお気に入りは、「麿」さんのシャンソン『ひなげし』
当たり前だけど、麿さんの歌だけに、何だかもの凄いドラマになってしまう

日出子さんは「上海バンスキング」は聞けなかったけれどときどきいらしては、
楽しそうにしてらした。後で「自由劇場」の斎藤さんが第三作『電子城』に客演してくれたから
そんなことを話していたのかも。

そうそう松坂慶子さんがその頃、
蜷川さんの演出で唐さんの作品に出るからと、、目黒不動の会場へ一人で来てくれて、芝居をみてゴザに座りの宴席でも劇団員と交わっていた。
、お開き後、お見送りしようとする間もなく、サラリとテントからの去り際が素敵すぎた。
そのお返しに稽古場へ唐さんが顔を出す時があり、わたしもお供した。その日はたしか、バレンタインデーのあたりで居合わせたみなさんへとお菓子のようなもののお配り物があり、わたしもいただいた。
蜷川さんの演出の慶子さんを、たくましい強靭だというようなことを言ってらした

名前はあげたくないけれどひどい人たちもいた 「唐さんのところは女優さんがいないから大変ね」

自分もその場でいて、「マスイも頑張ってるんだけどねーだか、もう少し頑張らないとね」と唐さんに言わせているのが情けない。
。その頃はただ失礼なと怒るだけでどうしようもなかった。三十数年して思うに、当たり前のこと。

唐さんの芝居は「李礼仙」「緑魔子」のために書かれた。兄しかいない唐さんが憧れた姉や、妹を演じられるのは、
募集で集まった顔ぶれにはいるわけがない。

「下町唐座」は第二作『少女都市からの呼び声』までの特別な劇場。

第三作『電子城』はついに、「紅テント」としてスタート。この芝居で自分は当てがきをしてもらった

「お前の良いところ運が良い、だから苦労というものを知らない」と言われて、運が良いだけの盲目の遊び人役」をもらった。


タンスを蹴破って飛び出して登場、フラメンコ靴で舞台を蹴り周り、黒い目隠しをして、腰に巻かれた綱で腕っ
ぷし自慢の勇者に操られる。周りの男たちからいただく投銭を長い舌で一枚づつ舐めとり微笑む! 盲目の踊り子
 
アラカンの今なら、面白いーと工夫するけれど、30数年前の自分には無理。公演ごとに丁寧に洗った銭を共演者に渡し「これを投げてね」とお願いし、自分が舐める範囲の舞台床を綺麗に雑巾がけしていたっけ。
ヘナチョコな自分なのに、この役をもらったあたりで、誰かからの嫌がらせはじまった。よくない言葉が留守電のメッセージに入るようになる

それをいちいち聞いて消すのが夫の役割に。不思議なのは、自分にとって、脅しの言葉も平気のへい、来るなら来い!くらいの気持ちで受け止めていた。
しかし身体はまいったらしくて、この芝居を持って旅に出る前には、生理が止まり妊娠したのかも?「妊娠したら旅にでられない」と唐さんに
相談に行ったら
「子供はいいぞ!生まれたら名前をつけてやるぞ」しかしそんなチャンスもなく、旅の後、自分の居場所の確保ができずに、、唐さんの元を
「劇団をやめるな、とどまれ」という夫からも、その時の自分を取りまく、人やことから逃げて楽になるために家出した。
そのわたしに関わってくれた二人がこの場所でお骨になったんだ

そのあと二年ほどして、どうしても唐さんの芝居が見たくて、花園神社の紅テントのわきで詫びた。
「これからは観に来い」と許され、大泣きした
それからは、春、秋、年に二回のテント芝居に出かけは桟敷で楽しむことになった

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そんなことを思い出して、佐助さんの靴下の赤から目を上げた。

隣の美仁音さんには、お悔やみと
「この前なさった『さすらいのジェニー』の姉役は初演の時にやらせてもらいました」と
自分も少しは唐さんにつながっているんですと言いたかったのか

最後に美和子さんから
「唐さんのお顔をみてあげて」と声をかけてもらい、祭壇に進みお焼香、ご遺体には、お礼とご冥福を伝えた
 
明日の告別式は晴れるといいですね

帰り道、唐さんから、教わったことばが出てくる出てくる

*敵との距離の取り方
「相手の繰り出すリーチをすり抜けてグッと懐に入り距離を詰めると打たれない」
とか
*目指すところがあるなら
「一気に行かずに、杭を打て、そこに行くまでに何本も打ち、次の杭、次の杭と、泳いで
行け、しがみついたら離すな 」など

記憶を辿るとや~~もうドンドコ出てくる、
同じ舞台に立たせてもらっただけでもみっけモンの麿さん、鷹さんのエピソードも思い出されてきましたが、なんだかんだの内輪話のような、思い出

唐さんから教わった、目指すトコへ至るための、しがみつくような大きな杭は今まで打つことはなかった。
これからも無くていいんだけれど、日々を面白がるために、ちょこちょこピンは打ち続けていこう。

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#創作大賞2024 #エッセイ部門

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