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久しぶりの一献を

ときどき、いつもの縄張りをはなれて
一杯やるのもわるくない。
知らない町の知らない飲み屋のひとときは、
馴染みの店の安心感とはまたちがう、
新鮮な趣きがあるのだった。
愚息から連絡があって、ひさしぶりに
酌み交わそうと相成った。
場所は、愚息の馴染みの店で。
長野電鉄の柳原駅で降りて、歩いてすぐの
中華料理屋、光栄亭におじゃました。
いつも息子が世話になっています。
愛想のいいご主人夫婦に、手土産の菓子を渡して
挨拶をして、愚息と乾杯をする。
以前結婚していたときがあって、
一男一女の親をしていた。
愚息が5歳のときに離婚をして、
以来、ずっと顔を合わせることがなかったのに、
13年前に再会をして、ときどき会う
機会ができた。
お互いに、それぞれの暮らしがあるから、
会うのは、一年に数えるほどのことだった。
ずっと土木関係の仕事をしてきて、
つい先だって、職場を変えたという。
仕事は毎日忙しくて、日曜出勤の日も
多いという。ひとり暮らしをしているから、
仕事を終えて、家にいてもつまらない。
近所のこの店で一杯やるのが楽しみで、
週に8日は通っていると笑うのだった。
昭和のいちばん最後の年に生まれた子だから、
今年34歳になる。辛口の麻婆豆腐をつまみに、
スーパードライを飲みながら、
こいつも年相応に苦労してきたのかな。
そんなことを感じさせる,
やや疲れた顔つきになっている。
付き合っている女性はいないのかいと問えば、
いないいないと手を振る。
もう女はいいです。一緒に飲んでくれる子がいれば
それで充分ですと、年寄りみたいなことを言う。
以前、女性がらみのおおきなしくじりをしたと
聞いていた。
そんなところまで、我が身の血を引いたかと
思いながら、話を聞いた覚えがある。
そうはいっても、
まだ若いのに、欲がないなあとあきれた。
カウンターのすみでは、先客のおじいさんが
酔い酔いに出来上がって舟をこいでいる。
しばらくすると、年配のおじいさんが続けざまに
入ってきて、愚息に声をかけてきた。
父ですと紹介されて、お世話になってますと
挨拶を交わした。
先客のおじいさんも目を覚まして、常連さん同士、
みんなで酌み交わし始めた。
杯を重ねている間に、店の奥さんが、
ちょこちょこと好意のつまみを出してくれる。
気のおけない馴染みの店があって、酒席を
共にしてくれる先輩さんがいて。
ふだん見えなかった愚息の日常を眺めながら、
ひと息つける身の拠りどころがあると知って、
なんだか気持ちがほっとしたのだった。
好い店だねえ、またここで一杯やるのも好いねと、
思った次第だった。

春の宵愚息に欲がなさすぎて。





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