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シネマの記憶001 自由への欲求

 日本では、結婚式にのぞむ新婦を「花嫁さん」と呼び習わしている。結婚したての女性のことを、祝福のニュアンスを込めて、そう呼ぶこともある。おそらく長い人生からみれば「花嫁さん」という存在が、ほんのひととき現実から隔離された存在であることを、大人たちが知っているからに違いない。花嫁というのは、繭に包まれた幸福な存在なんだね、普通は。

 ところが、映画「シリアの花嫁」に登場する花嫁モナと家族にとっては、そこのところがじつに微妙である。生まれ育ったゴラン高原の村から、本国シリアで待つ花婿のもとへ嫁いでいくことが、彼女を育んでくれた土地や家族との永遠の別れに直結しているからだ。境界線を超えてシリア側へ踏み出してしまえば、もはや後戻りはできない。たとえ親元に戻りたくなったとしても、おそらく二度と故郷の村に足を踏み入れることができない複雑な状況を、観客はスクリーンを通して少しずつ理解していく。

 舞台となっているゴラン高原は、もともとシリア領だった。しかし、1967年の第三次中東戦争時にイスラエルによって占拠され、いまもって本国シリアとは軍事境界線で分断されたままの状態である。シリア側がゴラン高原をシリア領と考えているのは当然のことだが、占領側のイスラエルもゴラン高原を自国の領土とみなしている。住民たちにもイスラエルへの服従を強いている。住人たちのパスポートの国籍欄には、無国籍者と記されている。彼らはイスラエルの手で人為的に分断された牢獄に住んでいるようなものである。

 花嫁モナの一家はイスラムの少数派であるドゥルーズ派に属している。ドゥルーズ派の村なのかも知れない。どこまで真実か分からないけれど、長老支配がすみずみまで行き渡っていて、花嫁モナの嫁ぎ先も、おそらく長老たちが決めたことなのだろう。閉じられた場所に生きているがゆえに、ここのドゥルーズ派は、よけいに頑迷の度を深めているのかも知れない。

 政治的、宗教的、民族的に対立するイスラエルという国とシリアという国の狭間で揺れ動く家族。自由が許されない、息苦しいまでに保守的な男社会から遠くへ飛び出したい思いに突き動かされる女たち。境界を超えた先にも、ひょっとしたら、もうひとつの牢獄が待っているだけなのかも知れないのに。そうと分かっていても抑えがたい思い。

 もし遠い将来、万に一つでも、この複雑な中東社会に変化が起きるとしたら。その原動力となるのは、きっと、ここに登場する花嫁モナ、その姉、その母のような存在、つまり普通の女たちの強い思いに違いない。そんなことを夢想したくなるほど、この映画には、女たちの、自由への抑えがたい欲求が溢れている。ラストシーンで、軍事境界ゾーンをゆっくり歩み出して行くモナの背中には、凛とした強さが漂っている。

 先週末の米英仏によるシリアへのミサイル攻撃のニュースを知り、この映画(2009年日本公開)を思い出した。当時書いたものをホコリを払って掲載することにした。

*画像出典:https://movie.walkerplus.com/mv37800/

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