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「旅育」って何なん...?

こんにちは!先日、ある方から会話の中で「海外生活をしていると、他の国に気軽に旅育できて良いですよね〜!」と言われました。

「はて、旅育とは…?」

その言葉を初めて聞いた私。SNSのハッシュタグで「#旅育」と調べると、出るわ出るわ"旅育"の投稿…何か不思議な世界でした。「旅育」という言葉に価値を置いて大切に使っている人たちがいたら本当にごめんなさい。でも、一言だけ言わせてください。

"家族旅行"っていう表現やったらあかんの?←

旅育って何…?

この違和感は何だろう…知育、旅育…と思って調べていたら、九州大学のリポジトリに辿りつきました。一部を引用します。

まず「○育」の立ち上げ主体は専門の教育者や研究者,教育行政関係ではなく,教育学の専門性からは遠い一般企業や市民団体など在野の組織体や団体,個人である。また創作されたプログラムの内容は公的な学習指導要領に準拠して体系的に編成されたものではなく,主体ごとに個別の目的と手段に特化した断片的で自律的な民間色の強いものである。

中略

さらにそこで用いられる教材も学校によって提供される教科書や体験学習ではなく,日々の生活用品や生活習慣,自然物等もともと教材ではない身近なモノ・コトが充てられる。

中略

近年見られる「○育」の拡大については用語(表現)それ自体の特徴に着目した検討も重要である。そこには言葉の押韻(韻を踏む)や意表をついた「○」と「育」の組み合わせなど人びとの耳目を効果的にひくいわば言葉の技法を指摘することが出来るからである。それはたとえば昨今巷にあふれる「○活」や「○○ハラ」,「○○力」などの一連の表現群の社会的ブームに重ねて考えることができる。

中略

「○育」における生活資材の教育資源化(教材化)のプロセスには,教育や子どもの成長をめぐる一連の物語がともなっている。「○育」プログラムではその目標と目的,手段や手順を説明する主体は企業や NPO,個人など学校制度の外部に属するいわば非専門家,いわば在野のアマチュア教育家である。「○育」は文部科学行政や公教育に根拠づけられた正統性にもとづかない教育プログラムであることから,「○育」主体は独自の教育的理論と思想に基づく説得的な語りによって学習者が納得する説明をしなければならない。以下省略。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1929737/p023.pdf

なるほど…確かに、インスタで"旅育"とつく投稿を見ていても、教育っぽい語り口調だけど、教育ではない…と感じるのはこういうところだったのだな…と。論文の中では、「足育」「浴育」「火育」など、「何でもかんでも"育"とくっつけたらえぇんとちゃうで」と言わんばかりの言葉が。笑

こういう言葉って、SNSで「タグを生成するがためだけに生まれた言葉」なんじゃ?とも思わされました。

プロモーションのために使われる教育

そこからインスタの投稿を見ていくと、出てくるのはだいたい「プロモーション」の投稿。つまり「旅育でここに行きました!」という投稿にプロモーションが含まれていて「観光産業」を後押しする…というような、私にはちょっと理解しがたい世界がそこには広がっていました。

オランダでは国のサイズ感からしても、日本に比べればモンテッソーリの小学校は格段に多いですが、そんなこの国でモンテッソーリの教具がバンバン売れているかといえばそんなことはありません。

例えば"motessori"とinstagramで調べると位置情報とともに様々なモンテッソーリの情報が出てきます。基本的に"montessori"はオランダ語でも英語でも同じスペルなので、オランダの情報にフォーカスするために、"montessori thuis(家庭)"などで調べてみましたが「うちの家熱心にモンテッソーリ教育をしている家なんです!」なんていう情報さえほとんど出てきません。プロモーションを含んだ投稿なんてほとんどありません。

一方で、日本語で「モンテッソーリ」と調べると、出るわ出るわプロモーションを含んだ投稿の数々…面白いなぁって思います。

教育を"商材"として扱う行為

「知育」とか「旅育」のように前述したような「足育」「浴育」「火育」とかに対して、私は個人的に「教育を商材として扱う行為だな〜」と思います。以前、Voicyで「子育てコンテンツが流行することへの疑問?」というタイトルでお話ししました。知り合いのオランダ人ママが呈した疑問です。

子どもを授かったら「子どものため」に生きることを推奨することが善だ〜!!全力を尽くさないのに、何故子どもを授かることにしたんだ〜!

なんて言われたら、しんどいしんどい。笑 まぁ、気持ちはわかります。でもそれって虐待とかネグレクトなんかの情報を見た「反応」みたいなものかもしれません。もしくは、世界を社会を「悲観的」に見ているからこそ生まれてくる「焦り」かもしれません。

「子どもを授かったのに、ちゃんと育てない人がいるなんて!」とか、
「あぁ、この子の将来を守るために良い教育を!」とか。

結果、焦りとかソフトな脅迫概念を基盤に「お子さんの教育大丈夫ですか?」という教育を商材として取り扱う産業が生まれるのではないでしょうか。

「子どものため」は悪ではないが

もちろん「子どものため」は悪ではないと思います。逆に、子どもを育てる中で愛情を注ぐことはとても大切です。でも、いつの間にか「この子のために」が「自分が満足するために」にすり替わっていることって結構多いんじゃないかなと思います。

何でも「教育」に絡めるのが子どものためなのか…?

特に、SNSでプロモーションとタイアップしているのを見ると、「自分の子どものために」なら、自分でやっとけば良いだけでは?と思うし、逆に「こんなに良い情報なので誰かに伝えたい!」と思うのであれば、自分が直接知っている大切な人に伝えれば十分なのでは?と思ったりします(個人的に)。

「自分の子どもを愛している」という言葉が、時に教育を商用利用するための手段みたいに聞こえるのは私だけでしょうか…?

家族旅行でえぇやん←

冒頭にも書きましたが「旅育」なんていうのは、(私は)ただの「家族旅行」で十分説明がつくと思います。私たちもオランダという土地で、これまで数々の歴史名所を巡ってきました。アンネフランクの人生に興味を示している娘が行きたいと言うので、この夏はアンネフランクのお墓に行こうかと話しています。でも決して「旅育」なんて言葉は使いません(私は)。

家族旅行がどんな「学び」のコンテンツを含んでいようとも、それはただの家族旅行…だと私は思っています。「旅育」というタグをつけて、教育を商用的に利用しよう…と思えないのです。

教育を「みんなのもの」にとどめておくために私ができること

商業利用するということは、教育は「各家庭の努力」に委ねられる感じがします。色んな家庭があって、事情があって、社会はそれでも回っています。自分の家庭だけではなく、視野を広く持ち、その人たちと関わる気と行動があれば、自分たちの暮らしだけが「社会」ではないと気づけます。

そんな時に、「教育に費やせるだけの金銭的余裕がある人」が「○育」という言葉を使って「育児が十分にできない」というイメージを社会に与えることは不要だと思います。子育てとは、教育とは、一部の人の特権であってはいけない。これは私が公教育にこだわり、私立と公立との壁を外したオランダという国の「教育への挑戦」を支持している理由です。

かくいう私も、かつては仕事と家庭の往復ばかりで視野が狭く、公教育に携わる人間なのにも関わらずそういった視野を十分に持てずにいました。そんな自分の考え方を良い意味で破壊したくてした選択が「オランダという国で教育を見るめる」ということだったと思います。

だからこそ、今はこの国で見える視点から「教育」というものが過度に「個人や世帯のプレッシャー」になることを抑制する内容の発信をしたいと思っています。知育、旅育、足育、火育…は、自由なあそび、家族旅行、外遊び、キャンプ…で十分に説明がつくんじゃないか。

そんなことを考えています。


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