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「無理なものは無理」と言うオランダの先生たち

こんにちは!
オランダは8月だというのに寒い日が続いています...今日の外気温は18度。
「あぁ、もう夏は終わったのね」と半ば諦めモードです。
ただ、日が沈むのは21時過ぎなので、日が長いことをラッキーと思って生きるしかありません。

さて、オランダで子どもは現地校に通い、保護者と話をしたり、教育関係者にインタビューを続けてきましたが、その中でも共通しているのが、

「無理なものは無理」
"That's life."(それが人生)

というものです。

私はオランダの先生たちが教育に対して「もっとできる」「もっとやるべき」を求めすぎないところに、日本の教育が学べることがある。と感じています。


「無理なものにはNOと言うこと」

「子どもがスマホを使いすぎるのをどうにかして欲しい」
「夜遅くまで友だちとゲームをするのを注意して欲しい」
「平日に真夜中まで外を出歩くことを指導して欲しい」

子どもの躾と、学校における教育的指導を混同させる保護者は多いです。実際のところ、この部分に頭を悩ませている学校現場も多いのではないでしょうか。

私自身も「躾の部分の指導は学校では難しい」と回答した際に、保護者にムッとした顔をされた経験があります。しかし、それはまぎれもない事実です。私も子の親になり、子どもを育てる上での第一の責任者は自分であると自覚しています。(子育ての責任の"全て"が保護者にあるという意味ではありません)

もちろん、それを伝える時、言い方には気を付けなければいけませんが(冷たくなりすぎないよう)、保護者に「保護者としての責任とは何か」の自覚を促すことができるのも、教育者の役割だと思ってきました。

こういった保護者からの「(無理な)お願い」はオランダには存在しないのか?
私はインタビューをする教育者(校長や教職員)のほとんどに同じ質問をし続けてきました。

そして、答えはいつもこうです。

「あります。でも、学校の外(学校の敷地外)で起きていることは保護者の責任です」

しかしこれは、決して、

「学校の外で起きていることは学校には関係ない」

という意味ではありません。

「時に、保護者は自分の子どもを愛するあまり、学校に理不尽な要求、つまり、家庭と学校教育を区別する視点を失うことがあります。それは、子どもを愛しすぎるあまり、自分の子どもを優先したい、そのためなら社会の役割も問わない。ということなのでしょう。しかし、学校教育は感情だけで揺るがされるものであってはいけません。保護者もまた子育てに不安を感じていることも確かです。よって、学校教育でアプローチできる部分にはアプローチします。それは保護者との話し合いもそうです。しかし、保護者を育てるために、家庭と学校教育の間にきちんと線を引くことも、学校の役割です」

「教師は365日教師です。その職業に変わりはありません。しかし、24時間365日教師である必要はありません。教師の前に1人の人間なのですから」

オランダの先生が引く線が「正しい」とは言いません。

しかし、日本の場合、その線を「引きにくい」と感じた教育者たちが教育の畑を明け渡してしまった結果、その線を越えてくる人たちに困ってしまっているのも事実ではないでしょうか。

「勉強は必ずしも楽しいものではない」

時々、

「楽しくない学びは学びではない」
「勉強は本来楽しいもの」

というような言葉を聞きますが、私はオランダの先生の中にも、学校における勉強や学習というものをかなり冷静に見ている人たちがいることに気付かされてきました。

「オランダ語の単語のスペルを覚えることや、算数の中にある計算というものは、ある程度の練習が必要です。例えば、掛け算を覚えることなんかはドリル形式で学ぶなどして回数が必要なこともあります。それを"楽しくない"と言えばそうでしょう。しかし、楽しくない"から"やらなくていい訳ではない。そのことを生徒たちに伝えなければいけません。時に、目の前のことがやりたくないことであったとしても、それは"やらなくても良い理由"にはならないことを伝えることも必要です」

様々な学校を視察していても、ワークブックやドリル形式の教材に書き込み、それを一人ひとりが特定の場所に提出する様子を幾度となく見てきました。つまり、オランダの子どもたちも反復学習をしているのです。(当たり前ですが)

時に、日本の教育の議論の中で「個別最適化」ということばを「やりたくないと思うことはやらなくても良い」と解釈している場面に出くわすことがあります。また、私がオランダで見てきた教育を「自由な教育」と称して、学習活動の「自由さ」を期待されている方が多いような気がしています。

もちろん「一斉授業が最低限に抑えられる」という点において、ある一定の「自由さ」はオランダの教育に認められますが、決して「嫌なことは学ばなくて良い」ということではないということではなく、「好きなことだけを学ぶ」という、学習環境のことでもありません。

「勉強は必ずしも楽しいものではありません。子どもによっては、つまらないと思いながら進める学習もあるでしょう。しかし、そこに「やらない」という選択肢はありません。ただ、子どもの適性に応じて楽しく学べるための工夫やその方法を教師が数多く知っていることはとても重要です」

"That's life."という考え方

「人生、生きていれば自分の思い通りにいかないこともたくさんあります。それは子どもも大人も同じでしょう。もちろん、理不尽なことからできる限り子どもたちを守りたいという気持ちはあります。でも、集団で生きる中で必ずしも自分だけを優先できないこともあります。自分のしたいことをグッと我慢しなければいけないこともあります。でも、それが人生です。いつも自分を喜ばせてくれることだけに囲まれて生きることが不可能だということを学ぶ場所が、学校でもあると思うのです」

家庭で家族に囲まれて過ごす時間というのは、保護者が自分を優先してくれる時間でもあります。必ずしも全ての家庭でそうではないにせよ、本来子どもとは家庭で愛情を注がれ、その愛をエネルギーにして生きているのかもしれません。

自分のことをいつも最優先してくれる場所が家庭とするならば、学校とは異なる役割を持つ場所かもしれません。もちろん一人ひとりがないがしろにされて良い訳ではありませんが、全員の要求を全て叶えることが難しい場面もあります。

自分だけお弁当を先に食べられないことも、
大好きな友だちとペアになれないことも、
遊びたい教具が誰かに取られてしまうことも、
自分の意見が必ずしもみんなに受け入れられないことも、

それが集団で生きるときに「諦めなければいけないこと」に変化することは往々にしてあり、それが全くない状況が「良い教育」だと言えないことも確かである。オランダの先生たちはそう言います。

「自分が優先されないことで悔しい思いをすることもあるでしょう。もちろん、それが当たり前だとは言いません。でも"That's life."、誰もがそうやって人生における理不尽や悔しさを経験することは、多少なりとも意味があることだと思います」

個別最適化学習に寄り添える制度と学校の環境

オランダの学校を視察して思うのは、子どもたちは必ずしも「好きなことだけ」を学んでいる状況ではないということです。例えば、「掛け算が覚えられない、覚えることに面白さを感じない」という子どもであったとしても、ある一定のバーを超えることは求められます。

「掛け算覚えるの楽しくないよね、じゃあやめましょう」
とはいきません。(当たり前ですが)

オランダの小学校ではある一定の習熟度が認められない場合、留年があります。それはある意味「定着していなくても次の学年に上がれます」という無責任な制度ではないことを前提にしているというこだ。と、ある方はおっしゃっていました。

ただ、現場で視察をしていると、一定の定着に到達するまで「道筋」いわゆる「学び方」は多く用意されているように思います。また、そこには定着するまでの「時間的余裕」も感じます。そして、求められる定着度のレベルがそこまで高くないこともうかがえます。

つまり、

・学び方の選択肢における柔軟性(ある一定のワークブックなどは固定)
・習得の時間における柔軟性(一斉授業を最低限に抑えることで可能)
・定着レベルにおける柔軟性(過度な定着度を求めない、点数主義に傾かない)

少なくともこの3つがオランダの初等教育には用意されていると感じています。

大人全体が「能力」ではなく「適性」だと判断すること

何かにつけて能力が高く維持されることは喜ばしいことではありますが、達成すべきバーを低く設定することで、8割〜9割の子どもたちがそのバーを越えられるようにする。そして、その低く設定されたバーを飛び越えられない生徒を1割〜2割にとどめておくことで、教師もまたそこに注意を払いやすくなります。

また、私が感じるのは、教育者だけでなく社会全体に生きる大人が、そのバーを飛び越えられないことを「能力」として認識するのではなく、「適性」と判断することの重要性です。

私が思うに能力は縦軸で動き、適性は尺を持ちません。能力は他者と比べる中で決められるものであることに対して、適性とは「その人に合ったもの」を見つけることであり、そこに比較は存在しません。

「適性に合った指導とは」を問いやすくなった時、教育は自由になる。私はそう思っています。オランダの初等教育を見ていると、生徒の適性に応じた教育活動を改めて整えることができるような専門的知識を持った教員のサポート体制が見られることも事実です。

みんな違う。That's life.

子どもや大人一人ひとりが自分らしく、自己実現に向かうことができる社会は素晴らしいものです。

しかし、あなたと私は違う。これもまた事実です。

だからこそ、どんな人もその適性に合わせた仕事や、活躍できる場があれば、そこに能力の差は生じない。適性があるだけだ。
オランダの先生たちはそんなメッセージを伝えてくれているような気がします。

大学に進学し、研究者を目指す子どもがあらゆる教科において高い点数を叩き出すこと、
座学が苦手で、長時間座ってられず、国語も算数も最低限の知識しか身についていないこと、
体育の点数だけは高くて、他の教科はあまり身についていないこと、
どの教科もこれといって得意なものはなく、現段階で何かが秀でていたり、興味関心が強いものもないこと、

これら全てをその子どもが持った「適性」と判断した時、その一人ひとりが安心して暮らせる社会があればそれで良いのではないか。

何に満足し、何に幸福感を感じるかは人それぞれ違う。他人を傷つけず、自分を大切にして生きることができる環境があれば、あなたはあなたの幸せを私に押し付ける権利がないのと同じように、私はあなたに自分の幸せを理解してもらわなくていいという自由がある。

もちろん、オランダの社会がそれを全て叶えているとは思えません。しかし、少なからず教育者や社会に生きる大人たちが人のありようを「能力」ではなく、「適性」だと判断し、その適性に応じた生き方が用意され、どんな適性を持った人もその人らしく生きられるのであれば、皆が自分なりの幸せの中で生きられるのではないか。そんなことを考えさせられます。

冷酷にも聞こえる「無理なものは無理」という考え方は、ある意味、その人の適性を適切に判断し「あなたはそれで良い」「今以上背伸びして無理をしなくていい」という言葉にも聞こえます。

それを「生ぬるい」と感じるかどうかはその人次第だとは思いますが、全ての子どもたちに対して目標設定を高くし、「自分はいつもそこから落ちていく」と感じるような子どもたちを量産しかけている社会からすると、「無理なものは無理」という考え方はある意味、合理的だと感じています。

オランダという国もまた、あらゆる問題と戦っています。完璧な教育がないように、この国の社会や教育もまた完璧とは言えません。
しかし、私が話をする先生たちの多くは教育を冷静に見つめ、オーバリアクションしないように努めているように見えます。そして、「無理なものは無理」と「個別最適化」の間で、常に可能性を見出そうとしているように見えることがあります。

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