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"走りながら作っていく成長"への許容

こんにちは!
まだまだどんよりとした日々が続くオランダでは、寒さが身に染みます…

さて、オミクロン株が猛威を奮っているこの国では、先日、陽性者数が64,000人を突破。人口が約1750万人程度しかいないこの国でこの数字です!!!

コロナ感染はもう他人事ではなく、あちこちで感染した話を聞くようになりました。オランダの小学校ではクラスで3人の感染者が出た場合、学級閉鎖になっていましたが、火曜日の会見でそのルールが取っ払われました。感覚的にオランダやその周辺国には、ルールを緩和していく動きがあります(もちろんそうではない国もあります)。このまま「インフルエンザと同じ」という感覚がもうそろそろ広がるのではないかと思っているところです。

無事、オンラインイベントが終了しました

さて、先日、初めての単独のオンラインイベントが終了しました。2022年は挑戦の年にしようと思って決めたオンラインイベントですが、少なくとも月に1回は実施するつもりで計画しています。

今回はオランダの小学1年生にあたる児童生徒が使用している教科書にいかに「学び方の多様性」があるかを紹介しました。いわゆる「生徒を置いて行かない工夫」がなされている教材だということです。それはつまり、スローラーナーへの配慮がありつつ、学習意欲の高い生徒への配慮が教材自体にあるということ。教材開発の時点で「子ども一人ひとりが多様である」ということが念頭に置かれていることがわかります。

また、何故そんな風に子ども一人ひとりの多様性に合わせて教材が開発されるようになったのか…そこには法律や制度の違いがあることにも言及しました。つまり「教材だけ」変化させるような表面的なものではないということです。
しかし、それは「日本でこういった教育を取り入れるとしたら法律や制度を変えなければいけない」ということでもないと感じています。それはどういうことかと言うと、今日の記事のタイトルのように「走りながら(トライ&エラーを繰り返しながら)作っていく」ということが許される社会でなら、小さな変化を大きな変化に変えていけるということだと思うのです。

「オランダに来て、1年や2年で何がわかるのか」という言葉

実はオランダに来て2年目の頃、ある方から「オランダに来て、1年や2年でわかることなどほとんどないでしょう」ということを言われました。また、私(たち)が教職を辞して移住した決断に関しても「ここに来る前に、もっと日本でできることもあったのでは?逃げてきたのでは?」という言葉をもらいました。

この国の教育について私よりも遥かに勉強され、知識がある方だったので、ショックを受けた部分がありました。また、実際のところ、おっしゃることがわかる部分もあったのです。その言葉をもらってから、しばらくの間、自分(たち)の下した決断に"こたえ"はないにせよ、何をどうすることが自分たちなりの"こたえ"に近づける行動になるのかということについて深く考えました。「移住して1年や2年で語れることなど本当にないのか?」「ここに来る前にできることがもっとあったはずなのに、それに目を瞑って現実から逃れるようにここへ来たという要素があるのか?」そういったことについて自分に問い、一体何がしたい(できる)のかを深く問い続けたのです。

「経験的な情報」と「正しい情報」のバランス

社会に対して何か情報を正確に発信していくためには、「経験」だけに基づいて話をしていてはいけないかもしれません。例えば、私がこれまでオランダの教員の方々にインタビューをして感じた部分は、「主観的な部分」として大切な要素だとは思いますが、情報が「事実」に基づいているか、表面的なことだけではないかという客観的な要素ももちろん大切です。つまり、「主観的な情報」「客観的な情報」のバランスが必要だということだと思っています。

また、主観的な情報を伝える時は丁寧に言葉を選び「一事が万事」のような伝え方にならないように配慮することも求められます。同時に、情報を受け取る聞き手にも「批判的思考」と呼ばれる思考力が求められる部分でもあると感じます。

「走りながら作っていく」はどこまで許容されるか?

少し話はずれましたが、では「ほとんどの事実を知っている人」でしか、情報を発信することはできないのでしょうか?走りながら、失敗しながら何かを積み上げようとする人の行動にはミスもあります。しかし、実際のところ社会のあらゆる発明品や発見は、全て「トライ&エラー」で改良を重ね、作られてきたのではないでしょうか?

もちろん情報を伝える媒体として「インターネット」があったかどうかは大きな違いです。誰でも好きなように情報を発信する時代において、その気軽さが仇となり、誤ったかたちで情報を流してしまうことが罪深さを伴うこともあります。ひと昔前であれば、本や新聞という確認に確認を重ねて情報が世に送り込まれたのに対して、現代ではそれがある意味「気軽すぎる」ということもあるでしょう。

しかし、もうインターネットはなくなりません。

そう考えたとき、もちろん情報を発信する側がその内容にきちんとバランスを含んでいることは求められますが、「完璧でなければ世に出すな」だけではなく、「走りながら作っていく」という発信の在り方もあって良いと思うのです。

「トライしなければ、良いも悪いもわからない」

オランダの教師たちと話をすると「教育は完璧を求められると一気に衰退していく」という言葉を聞きます。それはつまり「"こたえ"がないからこそ挑戦し続けなければいけない」ということだと思うのです。

教育に関して言えば、どの時代にも子どもたちがいるわけで、
「新しいことにチャレンジしたいのですが、子どもたちに悪い影響を与えてはいけないので、その期間は子どもたちを休校させましょう」
というわけにはいきません。

では、チャレンジしないのか?良い結果があるかもしれないにも関わらず?
もしかしたら、チャレンジが悪い結果を招くかもしれないから…?

以前、オランダで日本企業に勤めていたオランダ人男性と話をしていた時、彼は言いました。

「リスクや恐れは必ずある。でも、チャレンジしないと何も変わらないよ。もちろん、出来るだけ用意周到であることは大切だけれど、"完璧になってから"なんて待っていたら、変化は起こせない。日本人はそれが上手じゃないね。批判が多くて、粗探しばかりをしている。"いいじゃん、やってみよう!"で、やってみてダメでもそれで良いじゃないか。次またチャンレンジすれば。結果論だけで話をしていると、誰もチャンレンジできないよ」

彼の言葉が今も心に残っています。

「やってみなよ!」と言ってあげられること

個人的に、私は子育てにおいても、子どもが「やりたい」と言えば、開口一番「やってごらん?」と言ってあげられるように心がけています。

「まだ考えが甘いな…」とか、
「それじゃあ上手くいかないと思うけど…」と思うこともたくさんありますが、大切なのは「本人が自分の行動と結果を受け入れること」

それはつまり見ている側としても「トライ&エラーを許容する」ということだと思います。

これは大人でも同じで、以前自分が失敗したことを他の人がトライしようとしていたら「やってみるといいよ!」と開口一番言ってあげると良いのではないでしょうか。失敗や成功も含めて、その人の糧になると信じて。

そして、行動を起こす側もまた、自分の決断と結果を自分自身で受け入れる必要があると思います。
「あなたが"やってみなよ!"と言ったから始めたのに」
と、誰かのせいにするのではなく。

人は皆、生まれて死ぬまでずっと発展途中。
「やってみようっと!」「うん、やってごらん!」
前に進む人を応援する社会が、チャレンジを止めない社会を作るのかなと感じています。

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