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ChatGPTを使ってみて感じたこと


何かと話題になっているChatGPT。そりゃ便利だろう!ということで、私も使ってみた。

私はロミロミのセラピスト、Hawai'i神話の研究を主に行っている。
それに付随するHawai'iの古代人の哲学を知りたくて、なぜ古代人が神話という精神世界を作り上げたのか?を知るために、土地と人間の関連を研究し論文を作成している。
おそらくあと2年〜3年程かかると思うが、今その論文の基礎となる部分の知識の不足を補う為に様々な学習機会を専門機関から与えてもらっている。

そこでレポートを書く機会が非常に多いのだが、複雑な課題で悩み時間をそこにかけるより、とりあえずChatGPTならどう答えるか?と、試してみる。勿論その答えをそのまま載せればそのレポートは失格となるのであくまで参考として眺めているだけだと自分に言い聞かせているのだが。

すると、ChatGPTの答えは完璧な答えを出してくる。その文体も押し付けがましくなく、また知ったかぶりもせず、まだ研究がされていないことは未知であると述べ、余計な予測や推論を述べない所など、「態度」として大変謙虚でその答えをこちらが疑う余地が無いのだ。

まるで、「出来杉くん」が横に居るような感じだ。

出来杉くんに相談が終わって、さて、自分の言葉で自分の文体でレポートを書こう!と思うのだが、しかし完璧な答えを知ってしまった今、それまで自分が想像していたフワーっと広がるたんほぼの綿毛の様な稚拙な考えら発想は、非常に余計であり話題が飛びすぎていたと感じてしまうのだ。
相手から良い評価を得たいのなら、その余計な自分の考えは切り捨ててしまった方が絶対に点数アップするだろう。

しかし、そうなると「オリジナリティ」をどこで出したら良いのだろうか?。

実を言うと、昔から私は地道に色々な方面で勉強を続けて来たのだが、過去のアナログ時代の私のレポートや論文は全体的に評価は高かったのだが、かと言って飛び抜けてどうこう言う程のものは無かった。
過去に(若い頃)教授や先生からとても褒められたことはあったが、だからどうということなく、褒められて嬉しいな、で終わっていた。

今の自分とその頃の自分を見つめると、その、過去にそこそこの成績を取ったそのレポートや論文自体は、今の自分の生き方や哲学に全くと言っていい程影響していない。

私は、相手が答えとして私に「何を求めているのか?」を察知する能力が高いので、相手が欲しがっている答えを書いて好成績を取っていた。

私にとってそれは他の人と比べて簡単なことなので、要求に答えているのは自分であるが、相手に合わせた自分の考えを発表することは、ある意味単に仕事をサクサクとこなして行く感じである。

では、私にとって何が自分の為になったかと言うと、それは好成績を取る為にそぎ落としてきた、たんぽぽの綿毛の部分だった。

学問の世界では、例えばある歴史を学んでレポートを書く際、教授の話したこと以外を書くことは御法度であり、教授の話した内容を広げるのではなく、深みを追求することで点数がアップする。しかしそんな成績などが役に立つ場面はおそらく院への進学か就職活動の時だけだろう。

結果的に、レポート用にイメージを膨らませる為に観た映画や読んだ本が今の自分の役に立っている。

何かの話題を深く追求する時に、私の場合は1番役に立つのは「イメージ」だからだ。

かと言ってそのイメージをそのままレポートに書く訳には行かないので、そこは、誰よりも強烈なイメージを持った自分がこれを書いているんだ、という説得力が他の人との差が付く部分だと信じてやって来た。

ChatGPTの素晴らしさは一切否定しないし私は寧ろ使ってみることは良いと思っている。
が、ただ、いきなりズバリの正解の答えを見てしまったら、それをどうChatGPTを見たことがバレない様にアレンジして提出するか?ということにエネルギーを集約するのはバカげていると思う。

何を書けば良いのか?を、探る為に参考文献を観たり映画を観たりという「余計な」作業が要らなくなり、単に好成績を取る為のレポートであれば、それを採点する側も学生の書いたレポートを読むことは今後非常につまらない作業になるだろう。

全ての人が正解を得たいが為に基本同じことを述べ、多少言い回しや文章の順番が変わっているものを読まされ続けるのだ。これまでは、好成績は与えられないが自分の知見が広がる様な読んでいて面白いレポートは存在していたと思う。
その教授こそ、今後はAIで充分なのでは無いか?と思う。

正解だけを求めて来た私たち人間がChatGPTを創って来たとも言えるのだが、これまでのやり方は、正解を求める時、一見遠回りに思える自分の予想、想像などがあったが、今後はそれらは邪魔なものになる。

また、人間の時空では、まだ論文になっていない研究の調査は、世界のどこかで同じ調査をしているかも知れないという取り越し苦労が存在するのが常だった。
しかしそのお陰でその調査を実際に自分が行ったという経験をした人が世界に点在していることは私は良いことだと思うのだが、合理的な観点からするとどこかの誰かが既にやっている調査は、その結果を参考にして自分は次に進むというのがネット社会になってからは常識に変わった。

だが、所変われば品変わる、で、調査の分野にもよるが、環境、場所、人種、思想等が違う所で同じ調査をしても全く違う結果が出るだろうに、世界のどこかで行った調査や研究が査読済みの論文になり、そこに権威がくっつけば、人は簡単にその結果を信じる様になった。

確かにどこかで見切りをつけないと研究というものは終わりが無くなってしまうものではあるが。

しかし、細密に言えば、人類には大きな共通意識の様なものが存在するが、何か一つの問題についての答えなど、実は一人一人が違っていて当然である。その「違い」が体質や思考であり、個性へと繋がって行くのだが、どうもこの社会が矛盾しているのは、

「多様性」を訴えているくせに正解や成績を付けて社会が好む結果を人間に出させようとしている所だ。

社会が好む=誰にでも馴染む=お金になる

ということなのだろうが、ChatGPTの出す答えといはそういう意味ではほぼ全て正解だ。


だが、そもそも私たちは一体何を求めているのだろうか??

グローバルな思考、つまり長いものに巻かれた方が生活が安定し、お金にも困らないのは事実だ。

しかし、それでお金を得て生活が安定することが幸せなのか?といえば、そうでも無いと私は思う。

色々な人が色々な意見を持っていて、それが極端だったり不正解だったりして、そこに矛盾を感じたり違和感を感じたりしながら、自分と気の合う人を探したり、自分という人間を理解して行くことが人生なのではないかな、と。

誰もが統一された正解意見の怖さは、その正解とは一体「誰が正解とした正解なのか?」つまりChatGPTを作った人達はどこの人達なのか?ということを考えなくてはならない。

AIは本当に優秀なので、私たちの気を逆撫でする様なことは言わない。そしてコンピュータながら思慮深く答えてくれる。しかも間違いは恐らく、無い。

AIからあらかじめ正解を得た人間が、一体これからどう自分の個性を表現して行くのか?ある意味楽しみでもある。

また、私の仕事の一つでもあるカウンセリングも、単なる正解が知りたいなら今後はChatGPTに質問して貰えばそれでOKとなった。
仕事が一つ、AIに奪われた形になる。

しかし、カウンセリングに来る人というのはその正解などは自分で分かっていながらも、そう思えない、そう出来ないから悩んでいるのだ。
誰にでも同じ答えを出すChatGPTではなく、その人の求めている方向性を感じ取る私の能力を使って答える内容と、AIの出した答えをぜひ比べて欲しいものだ。

ChatGPTと私のカウンセリング比べ!は、
次回に。

2023.4.16

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