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なぜ僕がこうなったのかについての2、3の理由(3)

 手洗いを済ませてカウンターの丸椅子の一脚に座り、ホットコーヒーを頼んだ。つい先週までは残暑がきびしく、アイスコーヒーしか飲む気になれなかったのに、今日はガラス一枚へだてた外の空気が、ねずみ色に冷たそうにくすんでいる。さっそく手帳のページをめくってみる。まるで文庫本でも読み始めるように、でもそれよりも軽い気持ちではある。見開きマンスリーの手帳には日記を書く欄などあまりないが、ところどころ、何か書いてある。一行に満たない短い文から、半月分のスペースを占めるものまである。ムラの多さは改善すべき点だ。
 

 【四月二九日 やっと連休。入学してからいろんな人間に会った。面白い奴、クソ真面目な奴、金のある奴、顔のいい奴、頭のいい奴。疲れた。疲れすぎてるのが自分でもわかる。】
 一年半前、上京してきて一ヶ月、やっと5月の連休に入ってほっとしてるとこだ。気が抜けて、脱力感さえただよう。テーブルには、冷水とおしぼりが置かれるやいなや、モカブレンドが運ばれてきた。一口目をすすり、舌にひろがるやわらかな苦みにため息をもらしてしまう。おいしい。手帳の片隅に投手が球を投げるアニメーションが書いてあるのを見つけて、なんだか、それを書いていた言語修辞法の授業などを思い出す。
 

 【五月一七日 サークルに入る。適当そうなところに入った。この時期になっても入れるところだから相当に適当なんだろう。飲みに連れて行かれた。酒がおいしい。善良でたのしそうな人たちだ。】
 とにかく居場所を確保しようと、サークルをあたった。Pに初めて会ったのもこの頃だ。学部横断のこの集団にはさらにいろんな奴がいた。公務員試験を目指してる奴、バンドで食って行きたいと本気で言う奴、ファッション雑誌の読者モデルをしている女の子、それに普通の女子たち。まだ海のものとも山のものともつかない連中が、おそるおそるコミュニケーションを図るのだ。飲みに行くと吐くまでやめない、そういうパターンが最初は嫌だったが、もともと酒好きなこともあり、徐々に慣れてしまった。
 

 【七月三〇日 バイトばっかしてると気が減入るよ。単純作業の繰り返し。刑務所の囚人かよ。塀の中の懲りない俺。繰り返すことが人間の尊厳を奪うのだとしたら、繰り返しじゃない刺激がやっぱり欲しい。】
 サークル活動費および遊興費がかさみ始めたため、サークルでコネのあるところだからと紹介されるがままにホストクラブでバイトを始める。地味なバイトだった。ひざまづいたりしたって、僕自身が地味だから地味なホストにしかなれない。お客のほうが派手だったくらいだ。こっちがあんたを接待してるみたい、とキャバ嬢の客に言われたこともある。単純作業で金をもらう、バイト然としてていいじゃないか、と今では思うけど、この頃はすこぶる不服そうだ。しかも「滅入る」の「滅」の字が間違っていた。自分が嫌になる。
 パラパラとページをめくっては懐かしくなったり、恥ずかしくなったり忙しかったが、ある日のメモの中にこんな記述を見つけた。すっかり暗くなった外の景色から、新宿ビル街のネオンがちらちら目に映ってくる。黒い鉛色の空が、急に冷え冷えとしてこごえそうに見えた。

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