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物語「そこから覗いていた」を投稿しました

今日は短い物語「そこから覗いていた」と投稿しました。よかったら読んでください。

「そこから覗いていた」

お昼休憩だった。
弁当を食べた後、わたしはトイレの手洗いスペースで歯磨きをしていた。
最後の「ぶくぶく」も終わり、口の中がすっきりしたなと感じた時に、杉峰さんはとなりの鏡の前に立った。
「今日もお弁当だっけ?」
と、彼女はわたしに聞いた。
「うん」
と、答える。

彼女は、会社の外に出て食べるのが好きな人で、あまりお弁当は持ってこない。
よくお金が続くなと思うのだけれど、まあ、彼女のふところのことはわたしには関係ない。
彼女はひとりでご飯を食べに行くことが多い。
たまに複数人で行くこともあるが、大抵はひとりだ。
それほど仲良しではないが、わたしは杉峰さんのことが嫌いではなかった。

彼女は、以前何かの誤解で社内の”声の大きい”女性たちに悪い噂を立てられていたが、気にした様子は見せなかった。
その”声の大きい”女性の団体が彼女の悪口を言っている部屋に、杉峰さんがドアを開けて入ってきたことがあった。

わたしは当該団体が悪口を言っている様子を少し離れた場所から眺めていたが、何しろ”声が大きい”ので何の話題なのかはなんとなく掴めた。
そして杉峰さんがドアを開けて入ってきた。彼女はすぐに、悪口をぴたりとやめて不自然な沈黙の中にいるその団体の方を見る。
まさか部屋の外にまで声が聞こえていたのでは、とわたしは顔が少々引きつる感覚がした。

杉峰さんは入り口付近のわたしの近くにいたが、大きな声とはっきりとした口調で団体の皆様に向かって、
「お疲れ様です。楽しそうですね。仕事は楽しく行うのが一番良いですよね」
と言ったのだ。
顔には、五月の風のような爽やかな笑顔が広がっていた。

その後誤解が解け、杉峰さんに関する悪い噂は事実ではないということがわかり、声の大きな女性たちは声を小さくするしかなくなった。

そんなことがかつてあったものだ。

さて、トイレにて、わたしは隣の鏡に映った杉峰さんを目の端に入れつつ、ケースから出してマスクをつけた。
杉峰さんは歯磨きセットを鏡の前の台に置いた。

彼女はマスクを外そうとして、そしてやめた。
その手を体の脇に下ろす。

「ね、この前ね、ナンパされたの」
と、彼女は言った。
その意味を理解するのに時間がかかった。
おい、いま歴史的な単語を耳にしたぞ。
「そうなの?ナンパ?すごいね」
とわたしは言った。
「まるで、平成時代の初期の話みたいよね」
杉峰さんの言葉に、わたしは笑った。

いま、このトイレにはわたしと杉峰さんしかいない。彼女も、それがわかっているようだ。

杉峰さんは続けた。
「わたしも、ショットバーのカウンターにひとりで座ってたから、本当に平成初期だよね」
「”そこの女性に一杯”、とか言われたの?」
杉峰さんは首を振った。
「そこまでいかなかったんだよね」
「そうなの?」
「”お話して良いですか?”ってその男の人はやってきたの」
と、杉峰さんは言った。
「なるほど、で、もしかして杉峰さんのタイプじゃなかった?」
と、わたしは聞いた。
「そんなことないよ。でも彼、鼻マスクだったのよ、鼻がマスクの上に出ていたの」
「鼻マスク」
わたしは、声に笑いを含ませながら繰り返した。

この感染症の時代に相応しく、店のカウンターは、ひとりひとりのスペースが透明な仕切り版で区切られていたという。
杉峰さんはひとりでカクテルを飲んでいたこともあり、マスクは外していた。
「その男の人はそれなりに気を遣ったのね、少なくともマスクはしていたわ」
と、杉峰さんは言った。
「まあ、鼻は出ていたけど」
「鼻が出ていたから断ったの?彼の、そのナンパを」
と、わたしが聞くと、彼女は首を振った。
「違うのよ。逆に、わたしは彼と話しをしても良いかなと思ったの。
気の良さそうな話も楽しそうな人だったしね、見た目。
それにあんな仕切り越しに口説かれるなんて、ちょっと面白い体験になるかなと思ったんだ。
鼻マスクのことは後で指摘はしようと思ったけどね、そんなだらしのない人から感染症うつされるの嫌だし」

なるほど、とわたしは思った。
でも彼女がそんな人に興味を持つなんて意外だな、とも思った。

杉峰さんは歯ブラシを右手に取り、そして右手から左手に持ち直して、また右手に戻して、話を続けた。

「それで、彼は隣に座って、透明な仕切り越しにわたしの顔をじいっと見たの。それがすごい見つめ方なの。
わたしの顔に穴をあけるような勢いいっぱいで。
目がやたらと大きく見開かれていて、怖くなっちゃったよ。
そんな見つめ方、はっきり言って気持ち悪いって。
ぬるくなったグラスを指で強く握ってしまったわ。
そしたらいきなりね、彼はわたしから目を逸らして、どこかのポケットからスマートフォンを出してきたの、で、耳に当てた。
”ああ、電話が鳴ったのかな”と思っていたら、彼は、
”なに?え?そうなの?”
と驚いた口調でスマートフォンに叫んで、すぐに電話を切ったの。
そしてわたしに向かって、
”すみません。家族から電話が入っちゃって。娘がね、怒ってるんですよ、遊んでないで帰って来なさいってね”
と、すまなそうに眉毛をハの字にしながら言うの。
わたしは
”はあ、そうですか”
としか言えなかった。

ちょっと待ってよ。
って思ってたよ。
勝手に声をかけてきて、そして勝手に去っていくって何?
そして、ナンパって娘に怒られながらやるものなの?
平成時代初期のナンパもそんな感じで行われたものなの?
なんなのこれって思ってたよ。
つまり、呆然としちゃったってことよ。

で、彼はマスクをちゃんと直して鼻をしまって、わたしから体をどこかに隠すように立ち上がり、帰っていった。

ーでもね。
でもね、あとから思ったんだけど、あれは言い訳だったかなって」

「言い訳?」
と、わたしは聞く。
一瞬、杉峰さんのマスクがぎゅっと萎んだように見えた。
彼女は答えた。
「彼、わたしの顔を見て、
”この人はちがう。自分の話を決してわかってくれない顔をしている”
そう思ったから逃げたんじゃないのかなって」

「そんなことないんじゃないの?」
と、わたしはすぐに否定した。
「ほんとに娘さんから怒りの電話が来たんだと思うよ」
杉峰さんは、
「そうかねえ」
と首をかしげた。
まあ、わたしにはその男が嘘を言ったのかどうかはもちろん判断できないが、そんなことは彼女には言わない、当然。

「今はこうも思うの」
と、杉峰さんは自分の中で言葉を探すようにゆっくりと言う。
「わたしはさっき言ったように、彼と話したくなっていたの。それは、”普段隠されてた彼”がそこにいたからだと思うんだ。
ーああ、わたし変なこと言ってる?まあ確かに言ってるよねえ。
でも、”鼻マスクの彼”と”マスクを上げて鼻を隠した彼”は、違う人に思えたんだよね。わたし、最初に鼻を出した彼を見た時に、この人普通じゃない、って思ったんだ。何故なのかはその時はわからなかったけど、鼻を隠した彼の顔を思い出しているうちに、考えがまとまってきたんだ。

”鼻マスクの彼”は、つまり鼻をだらしなくこの世に見せてしまった彼は、普段は見せたくない、彼の中の”子どもみたいな幼く怠惰でずるい成分”なんじゃないかなって思ったの」
「成分?」
「彼を構成する要素のひとつね。娘さんに怒られる、なんてまぬけな言い訳を堂々としてしまう、そんな成分」
「ふうん」
彼女の手は、歯ブラシをどうしようかまだ迷っている様子だった。
そして、相変わらずゆっくりと話していく。

「そういう綺麗とは言えない”成分”に、実はわたしは興味をもったんだよね。
なんでだろうねえ。なんでかなあ。
普段隠されているものだからかなあ。
わたしね、たとえば、普段怒らない人が怒鳴っているところに出くわすと、その人をじいっと見つめてしまうんだよね。
わたし、そういうところがあるんだよ。

彼の”ひょっこり飛び出していた成分”はあの瞬間、外の世界を慎重に疑り深く覗いていた。わたしが彼に相応しい相手なら、突っ込んでいくぞと思いながら。
残念ながら、今回、わたしはお相手に選ばれなかった。
その理由ははっきりしないけど。

でも、よくよく考えれば、そんな”子どもみたいに幼く怠惰でずるい人”と長時間話したってろくなことにならないよね。
だからこの結果でよかったと思うわ」

「そうね、それでよかったと思うよ」
と、わたしはうなずいた。
「そういうだらしのない人に巻き込まれたら、大変なことになる気がするよ」
「そうなのよ」
と、杉峰さんは力強くうなずいた。声も言葉もはっきりしていた。

うん、間違いない。
彼女は巻き込まれずに済んで、良かったのだ。

「ありがとう、歯を磨いて歯も気持ちもすっきりさせるわ」
杉峰さんにお礼を言われるのは、なんだか嬉しかった。
そして彼女は、触りまくっていた歯ブラシを一度うがい用のカップの中に置き、マスクを外した。
そのふわっとしたかたちの良い唇が、今までわたしに語りかけていたのだ。

「じゃあ、お先」
と、わたしは彼女の端正なつくりの横顔に声をかけた。

彼女はなぜわたしに話したのだろうな。
それほど近い距離の人間じゃないのに。
わたしのことを信用した?
いや、違うかもしれない。
マスクの下の彼女が、自己主張したい気持ちを抑えきれなかったのかもしれない。
そのタイミングで、たまたま隣にいたのがわたしだっただけで。

トイレから出ると、廊下を左から右へ、カツカツと急ぎ足で歩く男女。
そのうちのひとりがきりりとした声で、「わかりました、あと五分で用意します」とかなんとか言っていた。

わたしは自分のマスクがきちんと鼻を覆っていることを確認すると、彼らを真似してカツカツ歩き始めた。

*****終わり*****

読んでくださってありがとうございました。

私、会社で毎日お昼の後に、トイレの手洗いスペースで歯を磨くのが習慣になっているのですが、ときどき歯ブラシをタイルに落っことしてしまうことがあって、「この世の終わりだ」という気持ちになります。

今回のカバー絵…「見出し画像」って言うんですね…?
今回の見出し画像です。
(前にも言いましたが、イラストは実は自分で描いているんです)

She is peeking from there.

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