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選べるしあわせ

 取材させてもらう予定のフランス料理店へ、下見に行った。
 お昼でも単品ではなくコースのみだが、前菜とメインはそれぞれ2種類から選べるシステム。
 前菜は豚のパテ・ド・カンパーニュか、サーモンのマリネか。メインは豚の煮込みか、ローストした金目鯛のサラダ仕立てか。

 同行した女性編集者は、まるで剣道の立ち合いみたいな凄みを持った表情で、メニューと立ち合っている。で、顔を上げるとおもむろに勝利宣言をした。

「私は、最初から決まってた」

 え、今まで悩んでいた時間は何だったの? と突っ込みそうになったが、それは彼女にとって「食べたい」という直感を確信に変える道程だったらしい。

 マリネしてねっとりとした食感になっているであろうサーモンも捨てがたいが、定番中の定番、豚肉のパテには料理人の個性が現れる。その個性を味わってみたい。
 前菜が豚肉ならメインは魚が常道。しかし豚肉・豚肉で、調理法の違う豚肉天国を味わったっていいじゃないか。

 というわけで、誰になんと言われようが私は豚肉よ、の意思が先の言葉になって表れたのだ。

 選べるということ。
 それは、それができるという状況自体、とてもしあわせなことだ。

 数年前、一人暮らしをしている秋田の父が、病気の後遺症で半身を動かしづらく、天気の悪い日でも外へ食事を買いに行けないとこぼしていた。

 自宅へ食事を届けてくれる配食サービスなら、栄養バランスも考えてくれるうえおいしいと聞くから、試してみたら? とさまざまな業者を調べて、注文しやすそうないくつかを父に提案。興味を示した業者に、配食をお願いしたことがある。

 けれど、父はすぐ止めてしまった。理由は味の問題ではないと言う。
 おいしくて、便利なのになぜ?
 訊ねると、父は「自由がない」と答えた。

「食べる献立が決まっていて、毎日その時間に家さ居ねばなんねえべ。量も余計で、残せばまた次の日に残り物が増えるねが」

 つまり、与えられるのではなく、自分で選びたいのだ。

 暑い日ならそうめんをすすっと、寒い日なら鍋焼きうどんで温かく。そういう「食べたい」気持ちを持ってスーパーなどへ既製品を買いに行く方が、よっぽど自由で楽しいと言う。
 たとえコンビニのおにぎりであっても、焼きたらこか鮭にするか、そこには父の好みと自由がある。

 選べるということは、幸福感や、もっと言えば尊厳と結びついているのだ。栄養とか便利という合理的なスペックでは、人の心は満たしきれない。

 たとえばベトナムの屋台のように、トラックにいろんなお惣菜が並んでいて、「あれとこれ」というふうに食べたいものを、必要な分量だけ買える配食サービスがあればいいのになぁ、などと考えた。
 昔のお豆腐屋さんのように、ラッパが鳴ったら出て行って、食べたくない時は家から出なければいい。商売になるかはわからないけれど。

 それはもうすぐ、自分の問題なのだ。
 だとしたら、ごはんとおかずトラックのほかに、おやつと珈琲トラックがあるといいな、なんて妄想が膨らんでいる。

2019.3.2

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