おばあちゃんの声
変な人だと思わずに聞いてほしいのだが、私の中におばあちゃんが棲んでいる、と思うことがしばしばある。
声が聞こえてくるのだ。
それは実の祖母だったり、どこの誰だかわからない謎のおばあちゃんだったり。
以前、カメラマンの車で山梨県へ取材に出かけたときのこと。帰りに高速道路のサービスエリアへ寄ると、屋外テントで特産の葡萄が売られていた。
秋真っ盛り。
巨峰、デラウェア、ピオーネなど旬の葡萄はどれもたわわな実をつけ、カメラマンも編集者も「どれにする?」と早速、選定の構えである。
だが、私が釘付けになったのは葡萄の「包装」のほうだった。
ピンク色のプラスチック籠に収まった葡萄の上に、ぺろんと一枚、葡萄の絵が描かれた包装紙をかけてある。
この紙の意味は何だろう?
本物の葡萄を、絵に書いた葡萄でなぜ覆うのか。
埃よけ? にしても頭隠して尻隠さずで、籠の横からは房が丸見えだ。
逆にこの一枚をかけたがゆえに、紙が飛ばないよう紐で結ばなくちゃいけない事態になっている。紙代も、手間も増えるだけじゃない?
そう考えている私に、おばあちゃんの声が聞こえてきた。
「あなた、そのまんまっていうのは色気がないじゃないの」
それは祖母だった。
たしかに、青果がむき出しというのも八百屋の一山みたいでちょっとあられもない。ささやかでも包装紙がかけられ、きちんと結ばれている姿には、相手に差し出すときの「よかったらどうぞ」のうやうやしさが表れている。
そうか、ぺろん、があるとないとじゃ大違いなのだ。
紐といえば先日、スーパーで秋田県産のほうれん草を見つけたので買って帰ったら、葉束を紐でくくってあった。
私は糊のついたテープでなく、針金でもなく、紐結びだとうれしくなる。外す際に気持ちがいいからだ。
でもこのほうれん草は、単なる紐結びではなかった。
葉を締めつけ過ぎない絶妙な力加減、さらには、一本引っ張ればぱらりと外れる独特の結び方。その手仕事に、おお!と感動した。
「なんも、こうしておけば、使う人がほどきやすいべ」
今度は、見知らぬ農家のおばあちゃんの声が聞こえた。
実際に結んだのは農協のおじいちゃんかもしれないし、農家の若奥さんかもしれないというのに。
勝手におばあちゃんだと思い込んで、私は勝手にひれ伏しているのだ。
他人と話すには「会う」以外に手段のなかった時代を生きてきた方たちの、他人を慮る想像力にはかなわない。
今、産地偽装などのなくならない食品偽装は、食べる人が遠くなり、想像しないで済むからできるんじゃないかと思う。
遠いどこかで、自分とは関係ない人が買えばいい、と。
でも、それを食べるのが家族だったら?
自分の仕事の、その先に誰がいるのか。
見えない人を想像したり、雲を掴むような誰かを思い遣ることは難しいけれど、仕事の折々で思い出す声がある。
「人様に対する、敬意さえ忘れなければいいのよ」
これは実在する老舗おでん屋の、80歳の女将の声だ。
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