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オペラの解体、その先へ〜【Opera】アンドロイド・オペラ『MIRROR』/『Super Angels excerpts.』

                   (Photo by Kenji Agata ©︎ATAK)

 2022年にドバイ万博で初演、翌23年にパリのシャトレ座で上演され大きな話題となった渋谷慶一郎作曲のアンドロイド・オペラ『MIRROR』が、ついに東京に上陸した。渋谷のアンドロイド・オペラは、2018年の『Scary Beauty』、2021年新国立劇場で初演された『Super Angels スーパーエンジェル』に続く3作目。主役のアンドロイドもオルタ2、オルタ3、そして今回のオルタ4へと進化してきたが、渋谷のコンセプトは一貫している。それは「オペラという芸術形式への問い」である。

オペラというのは上手い歌手がいてすごい指揮者がいて、という西洋の人間中心主義の賜物みたいな芸術形式です。そういうオペラの中心に、人間が助けなければいけないアンドロイドがいて、かつ指揮者はいない、つまり、中心が不在という構造でオペラをやることは、おそらく西洋人では考えつかないことだと思います。日本人である僕だからこそ、アンドロイド・オペラという形式にトライする意味があると考えたんです。

美術展ナビ https://artexhibition.jp/topics/news/20240603-AEJ2057425/

『MIRROR』では、「声」を発するのはオルタ4と高野山声明の4人の僧侶。そこに渋谷が演奏するピアノとエレクトロニクス、さらに今回のために結成されたオーケストラ(コンサートマスターは成田達輝)が組み合わされる。全体は11の楽曲から成り、第1曲「MIRROR」と第2曲「Scary Beauty 」以外のテクストはすべてGPTが生成。またオーケストラが演奏しない3つのレチタティーヴォではオルタが声明の音を聴き取ってその場で即興的に歌詞とメロディをつけていく。すべての楽曲のテクストは映像で表示されたが、レチタティーヴォの部分ではオルタに合わせてその場でテクストが生成されていく様が映像でも確認できた。

Photo by Kenshu Shintsubo ©︎ATAK

 渋谷は「僕にとって、オペラにおいてナラティブ(物語)を追うことは、それほど重要なことではありません」と語っているが、2021年の『Super Angels』には島田雅彦が書いた台本によるストーリーがあり、またオペラ劇場で上演されたという「場」の「効果」もあって観客はどうしても「ドラマ(渋谷の言葉でいえばナラティブ)」を追いかけてしまうことになった(『Super Angels』のレビューはこちら)。そのために、「ドラマとしての弱さ」や「テクストの聴き取れなさ」を指摘する声があったのだが、そもそも渋谷が目指している「オペラ」とは、そういうものではないのだ、ということが今回の『MIRROR』ではっきりとわかった。エフェクトをかけられ、わざと言葉を聴き取りにくくしたオルタの「声」。そこに重なる声明の「声」もまた、日本語を発してはいるものの「聴いて意味がわかる」ようなものにはなっていない。ではこの作品にはまったく何の「意味」も含まれていないのか、というと決してそうではない。渋谷のメッセージを引用する。

世界は刻々と終わりに向かっている。この作品はその終わりと終わりの後のシミュレーションとバリエーションで出来ている。

仮に世界が終わったとしても、その過程とその後が美しければいいんじゃないか?それを想像してアンドロイドとAIという終わらない存在を祝福することが現在の人間に出来ることではないか?

『ANDROID OPERA TOKYO - MIRROR / Super Angels excerpts.』プログラムより

 第2曲「Scary Beauty 」が始まったとき、これは「終わりの中で輝く音楽」なのだということを強く感じた。第4曲「BORDERLINE」や第8曲「Midnight Swan」におけるオルタと僧侶たちとの境界が取り払われ、アンドロイドと人間が同じものであることが示された時の衝撃。言葉=ドラマを介在しない、音楽それ自体の持つ圧倒的な力こそがこの「オペラ」の「意味」なのだ。私は常々、「オペラとは音楽によってドラマを描き出すものである」と主張してきたのだが(そしてそれは従来の西洋音楽の文脈上のオペラにおいては正しい解釈だと信じているが)、この日渋谷慶一郎が提示してみせたのは、もはやドラマを必要としないオペラ、まさに「オペラ」という概念そのもの解体に他ならない。そしてその解体された「オペラ」のなんと美しいことか。

Photo by Kenji Agata ©︎ATAK

 そこでは、Justine Emardによる映像が大きな役割を果たしていたことも記しておきたい。舞台後方に設けられたスクリーンには、事前に作り込まれたものと、その場のライヴ映像とを絶妙に融合した映像が投影され続けたが、その映像としての美しさ、そして作品の「意味」をはっきりと示す表象としての質の高さには度肝を抜かれた。近年、オペラの世界でも映像を使うことは当たり前になっているが、はっきり言ってそうした映像が児戯に等しいものと思えるくらいのクオリティだった。

 それにしても、この日客席に「オペラ業界」の関係者の姿がほとんど見られなかったことには、落胆を隠せない。この日本にあって「オペラとは何か」を少しでも考えたことのある人ならば、あるいは考えなければならないと思っている人ならば、この公演には何をおいても足を運ぶべきだった。演奏、映像、AI、照明、音楽、テクスト、オペラに必要とされるおよそすべての要素における最先端の表現がここにはあった。これを体験せずして、今後どのような新しい「オペラ」がつくれるというのだろうか。少なくとも体験してしまった私には、とても想像ができない。

 最後に。オルタ4は「しばらく皆さんの前から姿を消します」と宣言した。それが何を意味しているのかはまだわからない。アンコールで演奏されたオルタ4と渋谷のピアノによる「Scary Beauty 」には、愛と慈しみの感情があふれていた。終わりの先でまた、オルタに会うことはできるのだろうか。

Photo by Kenji Agata ©︎ATAK


2024年6月18日、恵比寿ガーデンホール。


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