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【Opera】東京二期会『ナクソス島のアリアドネ』

リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』は、複雑かつ不思議なオペラだ。もともと演劇とオペラからなる作品だったが、初演の不評により演劇部分をオペラの中に組み込んだという経緯がある。かくして、これから上演されるオペラと演劇の役者たちが楽屋で騒ぎを繰り広げる「プロローグ」と、劇中劇の形で上演される「オペラ」という2幕構成の作品となった。

「プロローグ」の舞台はある金持ちの屋敷。若き作曲家のデビュー作であるオペラの歌手たちが集まってくる。そこに、オペラの後で上演される喜劇の役者たちもやってきて、オペラ・チームと芝居チームは対立。さらに「オペラと芝居は同時に上演するように」という主人の意向が執事長によって伝えられ、てんやわんやの騒動になる。


そして屋敷の中で上演が始まる「オペラ」。荒れ果てた孤島ナクソスで悲しみにくれるアリアドネ。彼女は自分を捨てたテセウスを思い、死ぬ覚悟を固める。そんなアリアドネを「女は不死鳥」と慰めようとするツェルビネッタ。しかしアリアドネは耳を貸さず、船でやってきたバッカスを死の使いヘルメスだと思い込む。アリアドネの美しさに魅せられたバッカスの言葉にアリアドネの心は開いていき、ふたりは口づけを交わして愛を確かめ合う。

この作品のややこしいところは、「プロローグ」がレチタティーヴォを主体にしたドタバタ喜劇であるのに対し、「オペラ」は荒涼とした孤島で繰り広げられる悲劇であるというところ。さらに、その悲劇であるはずのオペラに喜劇の役者たちが入り込んでくる。しかもその中心人物ツェルビネッタは、お芝居の中でも本名のままで、役を演じているというよりはむしろ自分自身の信条を語っているような感じ。一方オペラ・チームはプリマドンナとテノール歌手がそれぞれアリアドネ、バッカスを演じるのだが、「プロローグ」では互いに自分のアリアの方を長くしろ、と競い合っていたような人たち。「オペラ」ではリヒャルト・シュトラウスの芳醇な音楽に飲まれてしまうのだが、よく考えてみればこれは劇中劇、崇高な愛を歌っているこの二人は実はとても俗っぽい人物、ということを観ている側はわかっている。それでも音楽は美しくて愛は素晴らしくて…あれ、でもツェルビネッタはずーっと色っぽくて、えーと作曲家もここにいるんだけど…と頭の中が混乱する。しませんか?私はします。しました。

私はこれは、「人間なんてララ〜ラ〜ララララ〜ラ〜(古い)」というお話なのかと思っていた。いくら崇高な愛や芸術を語っていても人間なんて一皮むけば欲と色にまみれた俗っぽい生き物、でもそれが愛しい、的な。でも、どうも違うらしい。著名なリヒャルト・シュトラウス研究の方によればこれは「生と死の物語」なのだという。生を謳歌するツェルビネッタと死を望むアリアドネ。生の現場である「楽屋」と死に場所である「ナクソス島」。なるほど、そう考えると納得できる…ような気もする。

今回の演出を手がけたカロリーネ・グルーバーも、そこを意識的に打ち出していたようだ。細かい仕掛けがたくさんあって、一度見ただけでは全部は拾いきれないのだが、例えば「オペラ」でツェルビネッタがドクロを抱いて歌う場面とか。

最後にすべての登場人物が死んでしまうのは、「愛は人間のものである」がゆえに「愛は永遠ではない」という意味があるとか。

そして、キューピッド(エンジェルじゃないことに注目)が「プロローグ」にも「オペラ」にも登場するのは、人の「愛」というものが人間自身にはどうしようもない力によって生まれるということのメタファーなのだろう。

楽屋で大騒ぎしている人をじっと眺めながら矢をとぐキューピッドさん

みんな死んだ後で「次は誰にしようかな〜♪」とやる気満々のキューピッドさん

「愛は人間のものであるがゆえに永遠ではない」というテーマで思い出されるのは、ペーター・コンヴィチュニー演出による『サロメ』である(これもリヒャルト・シュトラウスの作品だ)。彼はサロメとヨカナーンが手をつないで愛の逃避行に出る、というラストをつくった。「愛の神秘は死の神秘より大きい」から。コンヴィチュニーは愛を信じていた。ではカロリーネ・グルーバーは?愛を得た人もみんな死んでしまうラストは、「死が愛を凌駕した」ようにみえる。愛なんてキューピッドの気まぐれで、人間は愛によって救われるとしても結局死んじゃうじゃん、という乾いたあきらめ。「愛の神秘は死の神秘にはかなわない」とでも言いたげな。ごく一般的に考えれば、『サロメ』こそ「愛より死」をテーマにしており、『ナクソス島のアリアドネ』の方は「愛を賛美している」ようなのに。

しかし舞台から受ける印象は、決して皮肉っぽくも、あきらめに満ちてもいなかった。死んでいく人たちはなんだかみんな幸せそうだったし。キューピッドが矢を放った途端にまた全員が起き上がって別の恋愛やら何やらを始めそうな感じ。そう、「愛は永遠ではない」からこそ人は愛することをやめない。永遠ならざる存在である人が、「死」という恐怖から救われる唯一の術が「愛」なのだから。キューピッドくん、矢でも鉄砲でも持ってこい!何度失ってもまた愛してやる!うん、カロリーネも十分愛を信じている。

最後に演奏について。ほぼレチタティーヴォで進行していく「プロローグ」で執事長だけが音がなくてセリフなのだが、すごかったのはレチタティーヴォとセリフの継ぎ目にまったく違和感がなかったこと。特に執事長と音楽教師のやり取りのところなんて完璧に「音楽」になってた。まあこれは、多田羅迪夫さんのドイツ語の「しゃべり」と小森輝彦さんのドイツ語の「歌」あってのことだろうが。

それをおいても、全体にレチタティーヴォが素晴らしく音楽的で優美なのには舌を巻いた(リヒャルト・シュトラウスも草葉の陰で拍手を送っていたに違いない)。そして歌手の皆さんの演技!出ているのがオペラ歌手であるということを一瞬忘れさせるほどの演技力で、これはかなり特訓を重ねたのだろうと推察される。

それだけに音楽面には点が辛くなってしまう。アリアドネを演じた林正子さんは群を抜いて素晴らしかったが、他は例えば音程が不安定だったり声量が今ひとつだったりと、もう少し「歌の力」が欲しかった場面も。シモーネ・ヤングの指揮は繊細で丁寧だが、リヒャルト・シュトラウスらしい豊かでふくよかな響きには今ひとつだったか(まあこれは、日生劇場という場所もあるだろうけれど)。

できれば別のキャストでもう一回観たかったが、それが叶わなかったのが残念だ。

写真:伊藤竜太

2016年11月24日 日生劇場

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