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「美」を受け継ぐということ〜【Opera】藤原歌劇団『蝶々夫人』

 粟國安彦演出の『蝶々夫人』は、1984年の初演以来藤原歌劇団がずっと上演し続けている伝統のプロダクション。何よりも目を惹くのは、舞台装置など美術の美しさである。手がけた川口直次によると、初演の2年後に、初演時のイメージは受け継ぎつつ移動公演に対応できるように作り直したものが35年以上の長きにわたって(多少のバージョンアップは施されつつ)用いられているということだ。舞台上には三重の透彫欄間、背景には長崎の港の形式が南蛮絵風の扇面に描かれる。1幕は春爛漫、桜の木々の植えられた蝶々さんとピンカートンの家の庭で、中央にかけられた真っ赤な太鼓橋をわたって蝶々さんが登場する。2幕は家の中が舞台だが、能の橋掛かりのような渡り廊下があり、その前庭には西洋風のガーデンセットが置かれている。シャープレスはここに座って、ピンカートンからの手紙を蝶々さんに読んで聞かせる(そのためにシャープレスが土足で畳の部屋に上がることを回避できた、と川口は書いている)。

 このように能や新派の要素を盛り込んだ純和風の舞台の上で繰り広げられる蝶々さんの物語は、演出も特に気を衒ったところのない、いわゆる「オーソドックスな」手法によっている。ピンカートンは「優しいけれど考えの浅いヤンキー」だし、そんなピンカートンを本気で愛してしまう蝶々さんはどこまでも「一途に人を愛し、裏切りを恥として死を選ぶ日本女性」。そこに現代風のジェンダーなどの視点は、ない。

 37年前にそうした視点をもて、という方が無理な相談ではあるものの、2021年の現代において、こうした「男性×女性」「支配×非支配」の構図を何の批判性もなく描くことに問題がまったくないか、といえばそうではないだろう。日本人女性がアメリカ人男性に裏切られて自死を選ぶ、というドラマの座りの悪さはこの作品についてまわるのだから。だが、本プロダクションの完成度が、そこに余計な「解釈」の入り込む隙を与えないのも、また確かだ。それほどに完成された「美」の世界がここにはある。

 2年前はテアトロ・ジーリオ・ショウワだったが、今回は場所を日生劇場に場所を移しての上演で、キャストも何人か変わっている。私が観た27日組では、蝶々さんの小林厚子、シャープレスの牧野正人、スズキの鳥木弥生、ゴローの松浦健、ボンゾの豊嶋祐壹が前回と同じキャスト。小林厚子は、高音にやや疲れがみられたか。まずまずのできながら、彼女であればもっと高水準の歌唱が聴けたのではないか、とも。脇を固めたメンバーはいずれもベテラン揃いで安心のパフォーマンス。牧野正人は、ところどころ音程が不安定になったものの、そこに佇んでいるだけで、あるいは何か一声発しただけでシャープレスの苦悩が伝わってくる。私は常々シャープレスという人物について、「あなたがもっとしっかりしていればもう少しなんとかなったのでは?」という歯痒さを感じていたのだが、牧野シャープレスからは内面の苦悩、辛さ、悲しさがひしひしと伝わってきて、これはすごい表現者だと改めて思わされた。スズキの鳥木弥生は、歌唱の確かさはもちろんのこと、舞台の目立たない場所にいてもきちんと演技をしており、こういう人がしっかりとドラマを支えているのだろう。ピンカートンの澤崎一了は、高音まで驚くほど安定したピッチで余裕のある歌唱。大体日本で聴くピンカートンは「頑張って歌ってる」感じが前面に出てしまうことが多いのだが、そういう箇所がまったくないのに感心した。あとは表現力をもっと磨けば素晴らしいトップ・テノールになるのでは。

 さて、今回の最大の問題点はオケにあったと思う。前回聴いた時にはそれほど悪くはないと思ったのだが、今回のテアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラはとにかく音に「流れ」がない(これはプッチーニの音楽では致命的だ)。指揮の鈴木恵里奈は、オケをなんとか滑らかに響かせようと懸命だったようだが、残念ながら指揮者の思う方向には動いてくれなかったようだ。ひとりひとりの奏者のレベルの底上げが必要だと感じた。さらに付け加えると、チューニングが終わった後、指揮者が入ってくるまでの間にフレーズの断片を弾いたヴァイオリンがいた。プロのオーケストラとしてあってはならないことだと思う。

2021年6月27日、日生劇場。

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