【Opera】METライブビューイング『蝶々夫人』

アンソニー・ミンゲラ演出のプッチーニ『蝶々夫人』は、METで人気のレパートリーだ。ミンゲラは1996年の映画「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー賞を受賞したが、2008年に54歳で亡くなってしまった映画監督。舞台は、さすが「映像の人」らしく、ヴィジュアル面の計算され尽くした効果が印象に残る。『蝶々夫人』はご存知の通り、明治時代の長崎を舞台にした物語なので、私たち日本人が観るときにはどうしても、「欧米から見た日本」の嘘くささ(間違った「ジャポニスム」)を覚悟しなければならない。このプロダクションは、ギリギリまで余計な装置を排し、障子の開け閉めで場面転換を図るやり方で、一種の「戯画化」を図る。

この「戯画化」に大きく貢献しているのが衣裳だ。女衒のゴロー、スズキ、蝶々さんの母親をはじめとする親族、芸者衆、ボンゾ、ヤマドリ、みんなが、今でいうなら蜷川実花風の原色を使った色鮮やかな「着物風の衣裳」を身につけている。だから舞台をパッと見ると、とても華やかで美しい。演じ手のほとんどが欧米人なのだから、純和風の着物などを着せたところで珍妙な印象は拭えない(音楽的には史上最高の名演といえるカラヤン指揮、ポネル演出のプロダクションを参照)。思い切ったデフォルメによる「戯画化」は、むしろ違和感をなくし、純粋にヴィジュアルの美しさに特化できるという点で成功といえるだろう。

ミンゲルのもうひとつの功績は、蝶々さんの息子に人形を使ったこと。普通は子役が使われるが、セリフのない3歳児なので大抵はお顔が可愛いだけの子がただ立ってるだけ、みたいなことになる。それに比べ、この息子の感情豊かなことといったら!人形だから表情は変わらないはずなのに、私には彼が困ったり、泣いたり、母に甘えたりする顔が見えるようだった。これは人形の遣い手が相当な人たちなのでは、と思ったら、幕間のインタビューで彼らが登場していた。文楽にヒントを得たという人形を遣っているのは、ロンドンのブラインド・サミット・シアターのメンバーで、なんと初演の時から変わらないとのこと。幕間のインタビューで「どんな歌手が演じようがすべて合わせられる」と語っていたが、その言葉通りの見事な表現だった。カーテンコールでタイトルロールと同じくらいの拍手を受けていたのもうなずける。

しかし、こうしたいくつかの優れた仕掛けによる素晴らしい効果があってもなお、私がいつも『蝶々夫人』を観るときに感じる「居心地の悪さ」は払拭されなかった。この作品の根底にあるのは、「西洋/男性」という強者が「東洋/女性」という弱者を支配する、という構図である。それは、この作品が明治時代を描いているからではない。例えば、ベトナム戦争を舞台にしたミュージカル「ミス・サイゴン」は20世紀における『蝶々夫人』といえるし、エリザベス・サンダース・ホームの子供たちはフィクションではない、リアルな「蝶々夫人の息子たち」だ。現代においても、ポルノの世界では「Asian Feti」と称するアジア女性を「素材」にしたジャンルがある。『蝶々夫人』の物語は現在まで続くありふれた、しかし日本人女性である私にとっては耐え難い悲劇なのである。

こうした「居心地の悪さ」を感じながらもなお、このオペラを観ながら涙さえ流してしまうのは、ひとえにプッチーニの音楽の美しさゆえである、と思ってきた。今日までは。しかし今回のミンゲル演出を観て、私はその考えを改める必要に駆られている。

先ほど衣裳について述べたが、そこでは言及しなかった3人の人物の衣裳について説明したい。「戯画化された和服」を着ていた日本人たちに対して、ピンカートンとシャープレスは時代にほぼ忠実な「リアルな洋服」を着ている。そして主人公である蝶々さんは、和服と洋服の中間のようなドレス風の衣裳を身につけている。そのフォルムは折衷スタイルだが、例えば1幕の婚礼用の白いドレスには繊細なレースが施され、頭にかぶったピンク色の花冠とともに非常に美しい。ちなみに蝶々さんの髪型が黒いストレートのロングヘアなのも、芸者衆たちが紙(?)でできた鬘を被っていたのと対照的だ。

「戯画化された日本人」と「リアルな西洋人」。そして「西洋人と結婚した日本人」である蝶々さんはその中間にいる。このヴィジュアルは紛れもなく「東洋」と「西洋」の、あるいは「女性」と「男性」の権力関係を描いたものなのだ。それに気づいた時、それまでは「ストーリーの悲惨さを救ってくれる」と思えたプッチーニの音楽が、一種のグロテスクさを持って迫ってきた。この日の「ある晴れた日に」は、これまで聴いた「ある晴れた日に」の中でも屈指の美しさに溢れていたが、それが美しければ美しいほど、そのグロテスクさは逆にあらわになっていく。もちろん、プッチーニの音楽が音楽として価値あるものであることは変わらない。しかし、男に金で買われ騙されて捨てられる女性が、これほどまでに美しい音楽で表現されているというグロテスクさこそが、『蝶々夫人』というオペラの本当のすがたなのだという気がしてならない。

果たして演出のミンゲルは、そこまで狙っていたのだろうか。それとも視覚的な美しさ」を追求していった結果、偶然そのような構図が出現してしまったのか。ひとつだけ言えるのは、このプロダクションを観た後では、『蝶々夫人』を「初心者向けの」「美しいメロディが満載の」「泣けるメロドラマ」などと表現することはもはや決してできないだろう、ということだ。幕が下りた後、METを埋め尽くした聴衆が割れんばかりの拍手喝采を送るのを見ながら、改めてオペラの奥深さを思った。

2016年5月9日 東劇

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