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【Cinema】想田和弘監督『精神0』

 やっと仮説の映画館で想田和弘監督の『精神0』を観ました。
 82歳で引退を決意した精神科医・山本昌知さんと妻の芳子さんを追ったドキュメンタリー。山本医師を主人公にした前作『精神』は観ていないのですが、随所に前作の映像が白黒で挟まれるので、時間の流れ(前作は2008年)は否応なく感じさせる。そしてこの「時」というものが、この映画の重要なテーマだと思いました。

 前半は、山本医師が引退することを知った患者さんたちが、「この後どうしたらいいのか」「もう山本先生と話ができないのか」と不安を訴えかける姿を追いかけていきます。患者さんたちの「人生」にとって山本医師がどれほど大きな存在なのかが痛いほど伝わってきますが、同時に、山本昌知という精神科医にとっても患者、つまり診療という自分の仕事がどれほど大きかったかが感じられます。後の方で登場した患者とその妻が「先生こそ体を大事にして。先生は人のために生きる中毒みたいなもんだから、努力しないとわがままに生きられないんだから」と言う場面に至っては、むしろ医師が患者に生かされているようでした。

 そして診察室に妻の芳子さんがやってきます。カメラが芳子さんを追いかけ始めると、彼女が認知症を患っている(のだろう)ことがわかってきます。ドアの開け方がわからない、家に帰ってもお茶の支度すらしようとしない、おせんべいを食べるのにお玉とピーラーを用意する…。一方、山本医師の方も生活能力はかなり低く(コップやお皿のありかがわからない、洗い物が山積みになっている、など)、彼がおそらくこれまで生活のことはすべて妻に負ってきたのだろうということがわかります。人生の最後の段階に入って、役割分担が逆転した(もしかしたら主客が逆転したといってもいいかもしれない)夫婦。その姿は、少しだけ滑稽でもあり、またかなり切なくもあり、カメラはそれを淡々と映し出していきます。

 途中で挟まれる前作の映像では、芳子さんはキリッとした理知的な女性で、山本医師の「中学校の頃からいつも成績1番が指定席だった」という話も納得。しかし今の芳子さんは、(お化粧をしていないせいもあると思いますが)ふっくらとした頬の赤さといい、はにかむような笑顔としい、時折り泣き出しそうな瞳といい、まるで幼児のように見えます。人は歳をとるとだんだん赤ん坊に近づいていく、という言い古された表現がぴったりと当てはまるのです。

 そのうち私はひとつのことに気づかされました。誰かの息づかいがやけに耳につく。このあたりが監督の絶妙なテクニックだと思うのですが、映画が進むにつれ山本医師の息づかいが、それとわからないうちに徐々に大きく、前面に押し出されているのです。それは、「医師」という役割を剥がされたひとりの「人間」、生活の細々とした作業を行うのにも苦労するひとりの「老人」を象徴する音、でした。最後のシーンはふたりが墓参りするのを追っていくのですが、花や水を持って長い坂道を歩く、妻の手を引いて段差を乗り越える、墓石を磨く、おはぎを供える、すべての動作が大変そうで、息づかいはどんどん大きくなっていきます。それは「老い」そのものであり、そこからは抗いようのない「時」の存在を感じざるをえません。

 普段なら「老い」からはできるだけ目を背けておきたい私ですが、この映画のラストシーンは不思議に穏やかな印象を与えてくれました。墓参りを終え、老夫婦は手を繋いでもと来た坂道を上っていきます。カメラはふたりの繋いだ手をアップにします。大きな息づかいと皺だらけのふたつの手。監督自身が「純愛映画」だと語っているように、こうなって初めて、ふたりはお互いにお互いだけと向き合うことができたのではないか。そうであるならば、「老い」とは決して忌むべきものでも恐るべきものでもない。「時」は敵ではなく、大いなる味方となるのではないか。そんな感想を持ちました。

 私もそろそろ「老い」ということを考えなければならない年齢になっています。老いること、そして死への恐怖はなかなか消えません。そんな時にこの映画と出会えたことは、本当に幸運だったと思います。

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