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名手たちでモーツァルトの真髄を味わう〜【Opera】モーツァルト・シンガーズ・ジャパン『ドン・ジョヴァンニ』

 2018年のモーツァルトの誕生日にバリトンの宮本益光を中心に設立されたモーツァルト・シンガーズ・ジャパン(以下MSJ)。ピアノ伴奏によるモーツァルトの全オペラ作品の録音という目標を掲げ、これまでにダ・ポンテ三部作を含む4枚のアルバムをリリースしている。演奏会や舞台上演も積極的に行っており、今回は王子ホールで『ドン・ジョヴァンニ』の上演が行われた。
 録音と同様ピアノ伴奏で、また全曲からいくつかのシーンを抜粋し、それを長谷川初範(特別出演)によるナレーションでつなぐスタイル。とはいえ、そこはアイデアマン宮本益光の演出。舞台上には赤を基調としたリボンがいくつも垂れ下がり、また登場人物も各々幅の違う赤いリボンを腕に巻きつけていて、これを引っ張ったり結んだり、切り離したり体に巻き付けたりすることで、各々の感情やその場の情景を表現してく。ドン・ジョヴァンニと騎士長だけが緑色のリボンなのは、赤が「命」のシンボルであるのに対して補色の緑が「死」を思わせる仕かけと見た。さらに舞台上にはダンサー(浅沼圭)が登場し、時に死神か運命の使者のようにドン・ジョヴァンニや人々を翻弄していく。歌手陣の演技とともに、抜粋のセミ・ステージ上演ではあるものの、一本のオペラを堪能したという満足感は高い。

 それはもちろん、出演者が皆モーツァルトの名手だからなのはいうまでもない。私見だが、モーツァルトのオペラは実は初心者向けではないと思っている。わかりやすい音楽的な盛り上がりがないし、人間関係が絡み合って展開するストーリーは「物語」に慣れていない人にとっては複雑で冗長に感じられるかもしれない。モーツァルト・オペラのアリアは初学者が必ず与えられる課題だが、だからといって決して簡単ではないことは歌を習ったことのある人なら誰でもわかるだろう。そう、モーツァルトのオペラは、もっとも基本的であると同時にもっとも難しいオペラなのだ。
 だから、歌手に求められるものは非常に大きい。簡単にいえば、下手な歌手がやればこれほど退屈なものはなく、そして上手い歌手が演じればこれほど面白いオペラはない。この日、王子ホールの空間で繰り広げられる『ドン・ジョヴァンニ』を観ながら、私は、モーツァルトのオペラの真の素晴らしさとでもいうべきものを感じていた。たとえばドンナ・アンナにはいつも感情移入ができないというか、女性として、あるいは人間として説得力のないキャラクターだと思っていたのだが、針生美智子のドンナ・アンナを聴いて初めて、父親への愛とドン・ジョヴァンニへの欲望に引き裂かれる彼女の「人間」を生々しく感じることができた。またドンナ・エルヴィーラも同じようにその未練がましさにイライラすることが多かったのだが、文屋小百合が歌う「ああ、誰が教えてくれるでしょう」からはその哀しさと深い愛情がひしひしと伝わってきた。もちろん、その他の歌手も全員がモーツァルトの音楽への深い理解と高い技術に裏打ちされた表現の持ち主ばかり。日本で今、モーツァルトのオペラを上演するのに最高の歌手の団体がMSJだということをはっきりと示してみせた。

 ところで、この日の舞台では、これまで数限りなくこの役を演じてきた宮本益光が考える「ドン・ジョヴァンニ像」というものが明確に表現されていたことは興味深い。

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