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時代を挑発する芸術〜【Opera】新国立劇場『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と東京二期会『こうもり』 

 私は11月24日と25日に連続して、2つのオペラを観た。図らずもその両方ともが「時代の中でオペラはどうあるべきか/あり得るか」というテーマを扱っていたように感じられたので、2作品を比べながらレビューを書いてみたい。
 
 24日に観たのは新国立劇場で上演された新制作のワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』である。これは新国立劇場と東京文化会館、ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場との共同制作として、本来であれば「オペラ夏の祭典2019-2020」の演目として昨年6月に上演されるはずだった。しかしコロナ禍で延期となり、さらに今年8月に予定されていた東京文化会館での上演も直前で中止。「三度目の正直」でようやく上演に漕ぎ着けたプロダクションである。それだけにオペラ・ファンの期待は大きく、「鳴り物入り」という言葉がぴったりのムードの中幕が上がったという経緯がある。
 演出はイェンス=ダニエル・ヘルツォーク。よく知られているようにこの作品はナチスによって政治的に利用され、「ニュルンベルク」はナチスの党大会が開かれるなどナチス・ドイツの国粋主義の代名詞ともいえる地名となっている。第3幕の最終場でハンス・ザックスがドイツの芸術を賛美する演説をどう位置づけるのか。どう理屈をこねくり回そうともシンプルに「ドイツ万歳」でしかないこの演説を、そのまま何のエクスキューズもなく提示していいのか、という問いは、ナチスを経験した我々の時代においてこの作品を上演する際に避けては通れない。
 ヘルツォークはプログラムノートの中で、この問題について次のように述べている。

『マイスタージンガー』は今日でも、実に様々な、時には政治的な目的に理表されることに対して無防備です。…(中略)…ワーグナーが提示している共同体は、その関心事を芸術という手段で表明するのであり、その中では芸術が議論やアイデンディティーの確認、融和となったものの中心的なテーマとなるのです。…(中略)…芸術は人間同士の平和的で敬意に満ちた関係に寄与することのできる、かけがえのない存在であり、その意味でまさに今日でも差し迫って必要とされるということなのです。

新国立劇場『ニュルンベルクのマイスタージンガー』プログラムP.15

 本演出のラストは、マイスターの芸術に疑問を拭えないヴァルターはザックスの最終演説によって説得されることはなく、エーファがマイスターに列せられたヴァルターの肖像写真を引きちぎった後にヴァルターを引き連れてニュルンベルクを去っていくという終わり方だった。この結末は、2021年の日本に生きている私たちにとってそれほど突飛なものだろうか。私はまったくそうは思わない。むしろ、全体主義の足音がすぐそこまで迫ってきているような今の日本社会においては、芸術によって支配される共同体にナイーブに同化することなどほとんど考えられない。また、共同体の掟をまず破るのが女性であるというのも、これほどのジェンダー・ギャップがある社会に生きる女性からすれば当然のことだ。何しろ今、この国では、女がものを言っただけで叩かれたり、下手をすれば女というだけで命まで狙われるようなひどいミソジニーが蔓延しているのだから。女が男の尻を叩いて共同体を飛び出したぐらいのことで何か現代的なことをやったつもりなのだとしたら、あまりにもぬるい。もちろん物語という点ではとてもわかりやすい演出だったことは認めるが、「今」この作品を上演するときにこの程度の穏当さでいいのか、という疑問はどうしても残るのである。ヘルツォークの言う「芸術によって救われる共同体というユートピア」を信じたいのは私とて同じだが、現実はおそらく舞台上で起きたことよりもずっと深刻な事態が進行中なのだ。

 さて、一方翌25日に鑑賞した東京二期会『こうもり』は、いうまでもなく他愛のない恋愛ドタバタ喜劇のオペレッタである。アンドレアス・ホモキ演出のプロダクションは、2017年に同じ日生劇場で初演されたもの。第1幕と第2幕を続けて上演し、第2幕のフィナーレの途中で休憩が挟まるスタイルだ。休憩後、客席の明かりがついたままポルカ「ハンガリー万歳」が奏でられるのも同じ。そしてその後のシーンについて私は、次のようなレビューを書いた。

 そして幕が上がるとファルケが例の「私たちは兄弟姉妹になりましょう」を歌う。ファルケも、ロザリンデ(仮面を外している)も、アイゼンシュタインも、アデーレも、酔っ払った舞踏会の客たちも、みんなが客席側を向いて立つ。およそ「シャンパンの酔いに任せた」楽しさとは程遠い、むしろ蒼白な表情で、あの『こうもり』の中でもっとも美しいといわれる合唱「ドゥイドゥー」が歌われるのだ。それは、まさに、舞踏会の客となった私たちに、「いつまでも仲の良い兄弟姉妹でいられるのか。あなたたちの現実はそれほど楽観的なのか」という問いを突きつけているとしか思えない。

https://note.com/naokobuhne/n/n998dfea00434?magazine_key=me8d5c2df7aa7

 今回感じたこともまったく同じである。ホモキは、中世から続いてきたハプスブルク帝国の支配が揺らぎ始めた時代に初演された『こうもり』に、やがて訪れる帝国の崩壊とそれに続くナチスによる併合というオーストリアの歴史を重ね合わせている。普通に考えればただの「楽しい恋愛喜劇」でしかないこの作品に、だ。「飲んで、騒いで、愛を語ればそれでいいのか。現実から目をそらしたままでは何も解決しないのではないか。いや、解決しないどころではなく、その先に待っているのは恐ろしい悲劇ではないのか」という問いは、2017年の初演路よりもさらに強く突き刺さる。

 仮に「政治的」という視点から両作品をみた場合、『マイスタージンガー』と『こうもり』、どちらがより「政治的」だろうか。いや、どちらがより「政治的」たり得るだろうか。おそらく大半の人が『マイスタージンガー』であると考えるだろう。しかし今回続けてみた2つのプロダクションに限り、私には『こうもり』の方がずっと「政治的」であると思える。もちろん、オペラが常に「政治的」でなければならないわけではない。博物館に飾られた骨董品を愛でる悦びは否定しないし、その悦びに浸る時間が幸せだと感じる瞬間だってある。だが、今という時代に、この社会に生きる私たちにとってオペラの意味がそれだけでいいはずはない。現実とリンクし、時代を挑発し続ける存在としてのオペラ。私はそのようなオペラを観続けたいと思うのである。

『ニュルンベルクのマイスタージンガー』2021年11月24日、新国立劇場オペラパレス。
『こうもり』2021年11月25日、日生劇場。


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