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ドビュッシーが目指した「オペラ」との齟齬〜【Opera】新国立劇場『ペレアスとメリザンド』

 西洋音楽史に革新的な1ページを記したドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』。日本ではなかなか上演機会のないこの作品を、新国立劇場が2021/22シーズンの締めくくりに持ってきた。しかも2016年のエクサンプロヴァンス音楽祭で初演され大きな話題となったケイティ・ミッチェル演出のプロダクションだ。

 中世ヨーロッパの架空の国アルモンドを舞台に、どこからやってきたのかもわからない謎の女性メリザンド、彼女を妻として城に連れ帰る王子ゴロー、そしてメリザンドに恋するゴローの異父弟ペレアスの3人を中心にした物語で、ベルギーの象徴主義を代表する詩人モーリス・メーテルリンクの戯曲がほぼそのままテクストとして用いられている。その歌唱様式は、レチタティーヴォとアリアを廃し、フランス語の抑揚に沿った旋律は「歌う」というよりも「語る」ようなものであるという点で、その後シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」で用いられたようなシュプレッヒシュティンメの先駆的存在ともいえるだろう。ドビュッシーは一時熱狂的なワグネリアンだったが次第にワーグナーからの脱却を目指すようになり、その結果として生まれたのがこの『ペレアスとメリザンド』だった。筋立てこそ『トリスタンとイゾルデ』に酷似しているものの、ワーグナーに特徴的な大管弦楽の響きや雄弁な歌唱を徹底的に避け、あくまでも言葉の響きに沿うように書かれたメロディと、それに合うように慎重に選ばれた楽器の組み合わせによる繊細な響きが、ワーグナー流の楽劇はもとより従来のフランスの「グランド・オペラ」とも明確に一線を画す。師のギローと交わした有名な会話の中で、ドビュッシーは「どのような詩が良いのか」というギローの質問に次のように答えている。

「ぼくが夢みている詩は、長い、重苦しい幕なんか書く罪をぼくに余儀なくおかさせない、場所も性格もいろいろ流動性のある場面を提供してくれる、詩です。そこに登場する人たちは、ああだこうだと言いあらそわないで、日々とさだめを受けいれます」

平島正郎「クロォド・ドビュッシィ その音楽にあらわれた世紀末の愛のかたち」

 『ペレアスとメリザンド』という作品の本質は、時も場所も人物の性格も「流動的」である詩をドビュッシーが音楽によって完成させたもの、ということができるかもしれない。かくしてこのオペラは、「どこ」とも「なに」とも「なぜ」とも無縁の、一種浮遊するような関係性を、あるいは流れのままに流されていく心情を描くことになる。確かにストーリーはよくある三角関係の果ての殺人(まるでヴェリズモ!)ではあるが、兄ゴローに一撃の元に殺されるペレアスも、「小鳥でも死なないような傷」で死んでしまうメリザンドも、声高に愛の成就を叫んだり死の世界を賛美したりはしない。彼らはただ滅びていくのであり、それゆえに彼らの愛のはかなさは一層際立つ。そして「永遠」よりは「はかなさ」を尊ぶのは世紀末芸術の根底にある美学のあらわれである(このオペラが作曲されたのは1893年から1902年にかけてだ)。

 こうした、ドビュッシーが目指しただろう作品のありようを、ケイティ・ミッチェルの演出はどこまでくみ取り得たのだろうか。演出家は舞台を架空の王国から現代の富裕な一家へと移す。多くの富裕層がそうであるように、この家も保守的な家父長制の支配する世界で、舞台はその闇や歪みを徹底的に暴き出す。家に連れてこられたメリザンドはまず小部屋に監禁され服を脱がされて着替えさせられる。一家が晩餐をとるテーブルにメリザンドの席はなく、花束を持って立ち尽くしている。「跡取り息子の嫁」の居場所はそこにはない。彼女はどこまでいっても「家」においては他者であり、唯一「子どもを産む」という機能のみが尊重される(原作でもメリザンドは身籠るが、大きなお腹をしているメリザンドと共に赤ん坊も出てくる)。舞台には箱型の装置が設置され、一つの箱である場面が繰り広げられている時には別の箱は幕で隠されていてシーンが移ると別の箱が現れるという仕掛けは、家父長制の歪みを描くのに功を奏したといっていい。

 しかしそこで繰り広げられる人々のふるまいは、先に述べたような流動性や浮遊感、ドビュッシーの言葉をもう一度引けば「ああだこうだと言いあらそわないで、日々とさだめを受けいれ」ているとはとても言いがたい。第3幕第1場「塔の場面」を例に挙げてみよう。ここは本来、高い塔の部屋から身を乗り出したメリザンドの髪がほどけ、塔の下にいるペレアスのもとまで垂れてきて、ペレアスがそれを愛撫するというこの上もなく官能的で美しいシーンだ。この時ふたりは未だ愛を告げあってはいないが、紛れもなく心は惹かれあっているということが「長い金髪」という世紀末芸術特有のモティーフによって表現される。ミッチェルはこれを、ベッドルームで二人がリアルにセックスをするシーンへとつくりかえてしまった。そして続く第2場はゴローが隣の部屋からその有様をイニョルドに覗かせる(幼児虐待だ)。ミッチェル演出は全編にわたってこのように生々しい「愛欲」のすがたをこれでもか、と描く。

 こうしたリアルでセクシーな描写は作品が本来目指しているものと齟齬をきたしているのではないか。特に違和感があったのはメリザンドの描き方だ。メリザンドはペレアスに対して明らかに誘惑者の立場に立っている。第4幕第4場、翌日旅立とうというペレアスを前に自ら服を脱ぎ、ペレアスの服も脱がせるメリザンド(この後二人はセックスし、ゴローは物陰からそれを盗み見ている。ちなみにはっきりと性交場面を目撃しているので、その後死の床にあるメリザンドに向かってゴローが「過ちを犯したのか」と問い詰める場面が意味不明になってしまっている)。第4幕にはゴローたちの祖父であり一家の家長であるアルケルがメリザンドの脚や腰を撫で回すシーンがあるのだが、ここでも明らかにメリザンドはアルケルを誘っている。仮にこの演出が、家父長制の犠牲になる女性の悲劇を描こうとしているのならば、なぜメリザンドが男たちを次々と誘惑していくのか。「運命の女(ファム・ファタール)」という存在そのものが男性に都合の良い幻想だ、という主張なのか。私にはそこまで読み取ることはできなかったのだが。

 さらに問題なのは、物語全体を(結婚式を控えた?)メリザンドが見た夢、という設定にしたことだ。プログラムでミッチェルはその理由を「現実世界の論理から解放してくれるというメリットがあるからだ」と語っている。実際いくつかのシーンには「もうひとりのメリザンド」が登場し、夢の中の自分を傍観していたり、そこに寄り添ったり、あるいは夢の中に入り込んで行動を起こしたりする。理屈に合わない不可解な行動も夢であれば観客はそれを受け入れることができる、というのは確かにそうだが、だったらなぜ舞台上の人たちにあれほどリアルな、ドロドロした三文不倫芝居のような行動をとらせるのか。果たして演出家は「夢」の持つ非現実的なイメージで舞台をつくりたかったのか、それとも現実社会に起こるリアルな理不尽を糾弾したかったのか。その間を縫っていたのだ、というにはいささか舞台上で起きていること同士の齟齬が大きすぎる。

 音楽面では、歌手陣の充実を存分に堪能できたのが嬉しい。特に、ペレアス役のベルナール・リヒター、ゴロー役のロラン・ナウリのふたりには、コロナ禍にも関わらず来日して歌ってくれたことに大いに感謝したい。リヒターはペレアスが当たり役だというだけあって繊細な表現が見事。またナウリの芸達者ぶりはこの難しい演出にもきちんと応えていたと思う。問題はオーケストラで、大野和士はオケを鳴らし過ぎではないか。東フィルはドビュッシーが書いたピアニッシモ、ピアニッシッシモまでも正確に把握して表現しているのだが、何しろフォルテやフォルティッシモの部分が大きすぎた。いくつかの場面で声がかき消され、ソリストがかなり無理をして声を張り上げている箇所があった。「劇のあゆみをさまたげず」「言葉の流動性に調和」するようなドビュッシーの繊細な音楽はどこへいってしまったのだろう、と思うことがしばしばあったのが非常に残念だ。

 現代的な「読み替え演出」には刺激を受けることが多いし、個人的には「オペラのいいたいこと」をこの演出はどう解釈してくれるのかな、と楽しみにしている。だが、あくまでもそれは「楽譜に何が書かれているのか」ということから出発するべきなのはいうまでもない。少なくとも私には、今回のミッチェル演出が、ドビュッシーが目指した音楽のすがたを正統に具現化していたとはどうしても思えないのである。

2022年7月2日、新国立劇場オペラパレス。

 


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