【Opera】新国立劇場 團伊玖磨『夕鶴』

日本を代表するオペラ『夕鶴』。新国立劇場では栗山民也演出で2000年、2011年に続く再々演となる。1本の枯れた木がある他は何もない土地に、ポツンと立つ小さなあばら屋。背景には空が広がり、時おり雪が舞い落ちる。シンプルな舞台で繰り広げられるのは、「鶴の恩返し」として知られている物語だ。

木下順二がこの民話をもとに書いた戯曲「夕鶴」は、1949年、山本安英主演で初演。この時に劇の音楽を担当したのが團伊玖磨で、彼は、木下の「戯曲の一言一句変更してはならぬ」という条件のもと「夕鶴」をオペラとして書き上げる。初演は1952年。以来、日本の創作オペラ初期の代表作として国内外で上演され、日本のオペラのほぼ唯一のヒット作となっている。

1950年代からすでに半世紀以上が経った今でも、『夕鶴』を越えるヒット作はない。そうした日本のオペラ界をめぐる問題はおいておいて、なぜ『夕鶴』だけがポピュラリティを獲得することができたのか。その最大の理由が、日本人なら誰でも知っている民話を題材にしていることにあるのは間違いない。あらかじめストーリーがわかっている、というのは強い。事前の予習も必要ないし、上演中に字幕を追いかける煩わしさから解放される。(ただし、オペラの発声と日本語のイントネーションは非常に折り合いが悪く、しばしば字幕をつけないと何を言っているのかわからない、という状態になる。ちなみに今回は字幕はなかった。)

「鶴の恩返し」は、傷ついた鶴を助けた男の元に、人間の女性に姿を変えた鶴が嫁に来るが、布を織っている姿を見てはいけないという約束を破ったために、鶴に戻って去って行ってしまう、という物語。幼い頃にこの童話を読んだ時感じたのは、「人間欲をかくとロクなことにならない」と「約束を破ってはいけない」という教訓だった。しかし、このオペラはもう少し違う世界を描いている。それは、男女の「愛」というコミュニケーションのすがただ。

主人公つうは、与ひょうを深く愛し、彼のためなら「何でもしてあげる」という。与ひょうは「少し頭の弱い男」として描かれていて、つうがやってきてから世界はつう一色。仕事もせずに家にいて、日がなつうを思っている。いわば、二人は「閉じられた愛の世界」に生きている。彼らが暮らすあばら屋はその象徴だ。

そこに入り込んでくるのが「金」という「外界」である。つうが織る布がとびきり高く売れることに目をつけた隣村の(それもまた外界だ)運ずと惣どは与ひょうをそそのかし、つうにもっと布を織らせようとする。与ひょうは「何百両も金が入るぞ」「都に行けるぞ」という言葉に心を動かされ、つうに布を織るように命令してしまうのだが、それがつうにとって、いや二人にとってどんな意味を持つのかわからない。

つうは、なぜお金が欲しいのか、私だけではダメなのか、と問う。「私だけを欲しがって」「この二人だけの愛の世界に閉じこもってどこへも行かないで」というつうの叫びは、つうが「外界」を拒絶していることを意味している。彼女は徹底的にディスコミュニケーションに支配されているのだ。人間ではない鶴であるつうにとって、「外界」の侵入は、すなわち自分自身の人間界からの追放を意味するのだからディスコミュニケーションになって当然だ、という批判には、こう応えたい。このオペラにおいて、つうは紛れもなく「一人の女性」として描かれており、むしろ鶴であることは彼女が「人間ではないこと」というより、「他人に本当の自分を開示できないこと」を表しているのではないか。

一方与ひょうは、愛する女が現れると彼女に夢中になり、大金をちらつかせられると金が欲しくなり、華やかな都を想像して憧れる。そのすがたは、「頭の弱い男」というよりむしろ幼児を思わせる。特に、栗山演出は与ひょうを無垢な子供のような存在として描いていると思う。その意味で与ひょうもまた、大人としてのコミュニケーション能力に欠けた存在である。

「コミュ障同士の恋愛はハマると抜けられなくなる」という俗っぽい説を引き合いに出すまでもなく、恋愛というものは本質的に、外界との接触を絶った閉じられた世界に耽溺する傾向を持っている。だが、人は社会的存在であるがゆえに、やがてどこかで恋愛というディスコミュニケーションと、外界とのコミュニケーションとの間に折り合いをつけていくものだ。しかし、『夕鶴』の二人はそれができない。だから「金」という「外界」の侵入に対して二人の愛はあまりにも弱い。

「私だけを見て」というつうのすがたは、現代では例えば「私と仕事とどっちが大事なの?」という女性になるかもしれない。そういう女は男にとってはめんどくさいのだろうが、しかし、「女の愛」がしばしばそのように内向きになってしまうのはとても「よくあること」なのだ。時にその愛が相手の男を傷つけてでも自分だけのものにしておきたい、という「怖い女」を生み出してしまうのは、「阿部定事件」やリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を思い浮かべてもらえればいい。いや、ことは女だけに限らない。ストーカー殺人などを考えれば、「怖い男」だってこの世にあふれている。

であるならば『夕鶴』で描かれているのは、時代や地域を超えた、ある種の普遍的な愛のすがただ、ということになる。このオペラが日本のみならず、海外でも上演されている大きな要因がここにある。二人だけの愛の世界は、純粋であり美しい。雪に包まれたつうの美しさは、「外界」の侵入しない純化された愛の美しさである。だがそれは長くは存在し得ない。つうが鶴に戻って飛び立っていくシーンは、そんな愛の世界が崩壊してしまった瞬間だ。そして、最後まで与ひょうにはそれがわからない。彼はおもちゃを取り上げられた子供のように、ただ呆然としているのみなのだ。

ソプラノ腰越満美は、2011年の上演時にもつうを歌っており、この役がレパートリーとして定着しつつある。先ほどは「私だけを見てという女は怖い」などと書いたが、彼女のつうを観ていると、その愛の純粋さに涙せずにはいられない。ただ愛のために生きたつう。現実に人はそのようには生きられないからこそ、それはある種の理想なのかもしれない。

テノール鈴木准は、「無垢な子供」としての与ひょうを見事に演じていたと思う。元々の透明感ある声に柔らかい厚みのようなものが生まれ、それが与ひょうの無垢さを際立たせていた(ヴィジュアルも、「あなたのためならなんでもしてあげる」と言ってしまいたくなる)。また、数々の日本語オペラの経験からか、日本語歌唱も群を抜いていた。

出演者は他に、運ずがバリトン吉川健一、惣どがバス・バリトン久保和範。また、劇の最初と最後に登場し、音楽的にも重要な役割を担う子供達は、2011年と同じ世田谷ジュニア合唱団が担当。大友直人指揮、東京フィルハーモニー交響楽団は破綻なく手堅いサポート。

このプロダクションはこの後、「高校生のためのオペラ鑑賞教室」として上演される。若い世代に「日本のオペラ」のヒット作を知ってもらうためにはとても良い企画だと思う。

2016年7月2日 新国立劇場


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