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「人間」を描いたドラマ〜【Opera】東京二期会『タンホイザー』

 「ワーグナー嫌い」の私だが、『タンホイザー』だけはわりに好きだったりする。その理由は、第一には音楽が、理性を根こそぎ持ってかれるぐらいヤバい美しさを持っていること。そして第二には、ワーグナーのオペラの中では「人間」がもっともリアルに描かれていると思うからだ。タンホイザーの「だめんず」っぷりは決して「お話」の中のことだけでなく、むしろ「こういうオトコ、いるいる」と頷いてしまう(決して好きではない)。だからこの作品が「聖と俗との対立」という構造で解釈され、表現されることが多いのに煮え切らない思いを抱かされてきた。もちろん、問題なのはエリーザベトの存在なのだということは重々わかっている。「自らの命を差し出すことでオトコを救う聖女」というエリーザベトが「愛欲の女神」たるヴェーヌスと対置されている限り、この構造から逃れることはなかなかに難しい。

 この度東京二期会が上演したプロダクションは、2013年にフランス国立ラン歌劇場で初演されたキース・ウォーナー演出をベースにしている(コロナ対応のために若干の変更がなされていたと思われる)。何よりも注目すべきは、「聖と俗」という二項対立の図式からこの作品を解き放った点にある。第1幕の「ヴェーヌスベルク」は、娼館風のしつらえとなっている。真紅のソファーの上で下着やガーター姿で踊るシレーヌたち。壁の絵から男女が抜け出してきて繰り広げられるバッカナール(このプロダクションは第1幕がパリ版、第2幕がドレスデン版に拠っている)。タンホイザーは故郷を逃れてやってきた娼館の女将ヴェーヌスとデキてしまい、子どもまで作ったものの(舞台上には黙役の少年が登場する)、こんな爛れた生活はもうイヤだと出て行きたくてたまらない。でもヴェーヌスは「絶対別れない!ヒモのくせに!それにこの子をどうするつもり!ちゃんと責任とってよ!」とヒステリックに男に迫る…どうです、これ。どこにでも転がってる男女のゴタゴタ話じゃないですか。かくしてヴェーヌスは「聖」に対置される「愛欲の女神」という立場から、現実に存在する「性的存在としての女」へとシフト。

 ちなみに装置で目についたのは、バッカナールの絵の部分が小さな舞台へと変化しそれが第2幕にも引き継がれることと、舞台上にキャットウォークが設けられていて、そこに傍観者がいること。一種の「劇中劇」っぽい作りになっているのだが、これがどれほどの効果を上げていたのかはやや疑問。ただし第2幕冒頭、牧童、そして領主ヘルマンと騎士たちがこの小舞台に登場し、そこから飛び出てくるという仕掛けはなかなか面白かった。しかもこの領主たち、狩りの帰りらしくて鹿やらキジやらの獲物をぶら下げているという、なかなかに生々しいお姿。つまりこの演出家は、徹底的に虚構と現実との境界を溶解させようとしているとみた。虚構と現実とは、一体どれほどの違いがあるというのか。この『タンホイザー』という「虚構のお話」も、実は起こりうる「現実」じゃないのか、という主張。

 第2幕、歌合戦が始まると、なんとタンホイザーとヴェーヌスの子どもが登場。領主ヘルマンが優しく肩を抱いて会場へ誘うのだが、「実はヘルマンとヴェーヌスの子ども…?」という邪推がムクムクと沸き起こる。ヴェーヌスは例のキャットウォークに陣取って歌合戦を観戦。タンホイザーが「肉の愛(=性欲)」を肯定する歌を歌うたびに騎士たちが怒り、タンホイザーを攻撃しようとしたりするのだが、その演技が非常に細かくつけられているのが印象的だ。そしてついにタンホイザーが「俺、ヴェーヌスベルク(=娼婦の館)に行ってたもんね」と告白すると、それまで他の騎士を諌めていたヘルマンが誰よりも激昂して剣をふりかざす様を見て、さっきの邪推がちょっと確信に変わりそうになる(ちなみに制作の方にあとで聞いたところ、子どもはタンホイザーとヴェーヌスの子どもだそうです)。つまり、第2幕では領主ヘルマン、騎士たち、みんながとっても「俗っぽく」描かれている。決して「精神の愛を信奉する心清らかな人たち」なんかではない。みんなタンホイザーと「同じ」人間なのだ。

 では問題のエリーザベトはどうか。白いドレスにロングのハーフアップという非常に「伝統的な」ヴィジュアルは一見「聖女」風であるが、ヴォルフラムを過剰に拒絶する様子、さらにタンホイザーとエリーザベトのやりとりを物陰からずーっと盗み見ているヴォルフラムの様子を見るに、これはひょっとしてタンホイザー不在の間にヴォルフラムとの間に何かがあったのでは、という下種の勘繰りを抱かせる。そして第3幕、罪を許されてローマから帰還した巡礼の中にタンホイザーがいなかったために、エリーザベトは聖母マリアに自らの命を捧げることでタンホイザーの贖罪を祈る。のだが、なんとこのシーン、祈りの歌を歌ってエリーザベトが退場したあと、例の小舞台の奥に縄で首を吊ったエリーザベトの姿が映し出されるのだ(この縄がまたなんともぶっとくて生々しい)。「自らの命を聖母に捧げる」という美しい言葉で表現されるこのシーンが明らかな「自殺」である、ということを観るものに突きつけてくる。最初私は、あまりに生々しすぎて目を背けてしまったのだが、実はこのシーンがどうしても必要だったことはラストシーンを観てわかった。

 エリーザベトの「自殺」によってタンホイザーは罪が許されて天に昇っていく、というのがこのドラマのラスト。舞台中央に降りてきた巨大な網目状の構造物が緑に照らされ(教皇の杖に若葉が芽吹いたことのメタファー)、タンホイザーはこれを登っていく。すると上から、逆さに吊られたエリザベートが降りてくるのだ。ふたりの伸ばした手が握り合わされるところで、幕。つまり、エリーザベトは「人間として」自らの命を絶ったからこそ、「人間として」死んだタンホイザーと天国で結ばれることができたのだ。人間たちが愛し合い、憎しみ合い、慰め合い、悩み合う物語。それが『タンホイザー』という物語なのだということを見事に描き切ったこの演出に深く納得したし、また素直に「タンホイザー、エリーザベトと結ばれてよかったね」と思えた。「だめんずが女によって救われる話」では決して得られなかった感慨である。

 さて、当夜の音楽的功績はひとえに、代役としてピットに入ったセバスティアン・ヴァイグレの指揮によるものだといっていい。細部にわたるまで読売日本交響楽団から「ヤバいぐらいの美しさ」を引き出していた。歌手陣では、エリーザベトを歌った竹多倫子が出色の出来ばえ。豊かな声量、非常に安定感のある歌唱で「人間エリーザベト」を演じ切った。二期会デビューだそうだが、これからどんどん二期会の舞台に出て欲しい逸材である。タイトルロールを歌った芹澤佳通はこれがロール・デビュー、どころかワーグナー・デビュー。「人間の愛」という演出のテーマをよく理解した演技で、愛と欲に人生を振り回されるタンホイザーの切なさや色っぽさを感じることができたが、気になったのは歌唱に安定感が欠けていたこと。声を十分にコントロールしつつ音楽の流れに乗って長丁場を歌わなければならないタンホイザーには、やはりまだ舞台の経験が足りなかったのかもしれない。もともと持っている素質はとても良いものがあるので、二期会は彼のような歌手をじっくり育てていってもらいたいと切に願う。新国立劇場でおなじみの三澤洋史が率いた二期会合唱団が、ディスタンスを保った演技をしながら素晴らしい合唱を披露したことも記しておきたい。

2021年2月18日、東京文化会館。

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