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3.11をエンタメの題材にするということ

新海誠監督の「すずめの戸締まり」という新作映画が公開になりました。
私はまだ観ていませんし、観に行く予定も今のところありません。
ですので、今から書くことはこの作品に対する批判や批評ではなく、「3.11を真正面から扱う」という点について思ったことですので、その点はご了承ください。

(以下3.11に関する内容が含まれます)

私があの地震にあったのは、東京都杉並区の交差点でした。お腹に長男がいて、電車に乗って出かけるところでした。駅前の交差点で信号待ちをしていたら、めまいのような揺れを感じ、それがどんどん大きくなっていきました。「いよいよ来たか」という不安と恐怖と覚悟…私も含め見ず知らず同士が自然と顔を見合わせ「大きくない?」「まだ続いてる!」と声を掛け合い、ドトールの入ったビルからは人が慌てて飛び出してきました。ようやく揺れが収まった頃、誰かが「東北の方だって!」と大きな声でその場にいた人たちに教えてくれました。

そのときお腹にいた長男の名前には「晴」の文字を使いました。節電のため薄暗かった産科の待合室がとても印象的で、明るい文字を子どもの名前につけたかったからです。

私のように東京にいて大きな影響を受けなかった人間でも、話せばもっともっと3.11にまつわるドラマがあります。被災された方々に至っては言うまでも無いでしょう。


「3.11を彷彿とさせる」ではなく、そのままズバリを扱う…しかもエンタメ作品として扱うとなれば当然覚悟は必要です。そしてその「覚悟」は、「自分が批判されるかも知れない」という覚悟ではなく「たくさんの人を敢えてもう一度傷つける」という覚悟です。

たくさんの人の「あのときの記憶」を呼び戻しておいて、その結論がもし「大切な人との毎日を大切にしよう」であるとするならば、私は絶対に扱わないし、扱ってはいけないと思っています。

もう少し掘り下げて言うならば、災害(自然現象)と人間の関係をどう捉えるか・・・という哲学的な問題をエンタメに昇華すること自体が難しく、着地点はどうしても人間ドラマにならざるをえません。
ということは、人間を成長させるきっかけとして「災害」を扱うことになり、ますますそれが「3.11そのもの」である必然性を欠いていきます。

「戦争の記憶を風化させない」という意味で、8月頃になると戦争を扱ったドラマなどが放送されたりすることがありますが、人間が人為的におこしたことと自然災害はまったく別物です。「風化させないために」という理屈が通るとすれば、当時の行政的な問題点や、その後それらが改善されたのかといった「人間になんとか出来る範囲のことをちゃんとやっているか」だけです。

…まぁ、あげればきりがありませんが…私だったらこれらの理由で3.11を真正面から扱うことはしないな、と思います。
もちろん考え方や感じ方は人それぞれですが、「自分がもしつくる側だったら3.11を扱えるか」という視点でいろいろな人の意見を聞けたら興味深いなと思います。





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