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東大理3の事件について思いを巡らせてみた

何年経っても、センター試験(今は、名前がまた変わったんだよね?大学入学共通テストとか)のニュースを聞くと、あの日の自分を思い出すので、今回の東大前での事件のニュースを聞くにつれ、随分とザワザワしてしまった。そして、まがいなりにも、東大文一を受験した者として、心底進学校出身でなくて良かったと、今では本当に思っている。そんな私の雑観。

今は少子化一筋だし、受験環境も私の頃とは随分と違うと思うけど、日本の受験のシステムが東大理3を頂点としているという事実は、変わってない。東大理3は、何しろ合格者数が100人足らずで、理1とは桁が違うし(理1は1000人以上)。そして、東大理3に事実受かる人というのは、私の実感として、ちょっと凡人ではない。うん、頭の良さ?回転力?問題を解く能力?が神がかっている。

私は、小学校から大学まで続いているエスカレーター校に入ってしまったので、そもそも東大を志した動機は普通の、所謂、進学校出身の受験生とは違う。

小学校5年生の時に、初めて塾に通っているとかいう人に出くわし、その人が、将来は東大に行くとか言うから、え?東大?この人が、行くの?じゃあ、私も、行くかな、と思ったのがきっかけだった(←因みに、私がこの男を好きだったことは言うまでもない。し、この男より、自分ができると内心思っていたのも、また事実である)。

まあ、きっかけはこんな出来事だったけど、私は大学まで続いている女子校にうんざりしていたし、東大に行けば、三島由紀夫みたいな人に会えるかもしれない、と真剣に思っていた。

昔から文学少女で、1番初めになりたいと思った職業は小説家という私は、その中でも三島由紀夫の文章や小説が好きだった(あくまで、小説だけ。彼の右派的な思想は全く受け入れられない)。そして、彼が小説を書く時の構想の仕方とか、テーマとか、物の捉え方とかに興味があり、どうやったらそんな変人に出会えるのだろう?と考えていたところ、彼は東大法学部から大蔵省の役人になり、小説家になったので、ああ!!じゃあ、東大に行けば、彼みたいな変人に会えるんじゃん!!と、単純な私は思ったのである。

しかも、当時の文豪は殆どが東大出身だった。夏目漱石も、川端康成も、谷崎潤一郎も。。(←当たり前である。その時代には、旧帝大くらいしかそもそも大学がないんだから。。。)

さて、受験勉強の次第はまた、どこかで書くが。高校3年生になってノコノコ塾に通い始めた私は、そこで所謂都内の進学校出身の同級生に遭遇し、前提条件があまりに違うことに結構な具合で驚いた。大体の都内進学校の生徒は、高校2年生の時点で、受験範囲の勉強は既に終わっている。高校3年生は、専ら受験勉強をしているのであって、朝から塾に居る人も珍しくない。そして、この人たちの多くは、中学受験を経た、受験猛者みたいな人たちである。ま、到底初めから、同じ土台には乗っていないと、少なくとも私は思った。

彼らの中では、学校内で既に成績の序列がある。で、それをそのままスライドさせれば、大体自分は東大に受かるか、落ちるか、ギリギリか、もう1年あればなんとかなるかが、わかる。で、そんな道を、恐らく小学校4年生くらいから歩んでいるのである(専ら、都内の話)。模試で蓋を開けると、全国でトップに名を連ねている人たちは、中学受験時代から模試で名前を飾っている。だから、東大入学後、顔は知らないけど名前だけは知っているみたいな事態が生じる。そんな世界である。

で、思ったわけだ。私が、もしこの↑の波の中にいたら、自分が東大受験をしようといった発想は生まれなかったかもしれない。常に、相対評価の中で比較され、自分の順位をまざまざと知らされるような環境では、こんなに呑気に、あ、じゃあ、受けてみよ〜!みたいには、思わなかっただろうな、と。

で、相対評価に晒されていない自分は、大いに自分を錯覚しまくって、やれば出来るんじゃん??みたいな気持ちで、受験に挑んだわけだが。

塾の時代にも、入学以降にも感じたことだが、一部、東大一校しか受けないスーパー受験生たちは、普通にやっていれば、東大に受かる。そういう人たちが、事実いる。

そして、理3に至ったちゃ、そこに拍車がかかる。あんなに難しい数学の問題や物理、化学の問題でほぼ満点とか。そりゃ、数学オリンピックだの、なんだの言ってる人たちなんだから、当然なんだけど。いや〜、君、本当に、頭がいいのね(お勉強は)と、思ったものだ。

で、それらの人たちが、大学入学後も、とんでもない研究をしてくれたり、真相究明の闇に入っていってくれたり、ありがとうってな感じだ。

文一にも、一定数変人はいて、私が大学に入って、この人マヂで紙一重だなと思った人は、日本語の国際関係論の授業を中国語でノートを取っていた。。しかも、中国語の勉強は、高校3年生で受験勉強が終わってしまったから夏から始めたと言っていた(この人は、今中国で猛烈に活躍してくれている)。まあ、変人話は、他にもたくさんあるけど、まあそこはまたどこかで。

で、要は何が言いたいかと言うと、環境ってのは怖いってことである。そこでの価値観が全てになってしまう。そして、そこの価値基準から自分が漏れてしまっていると、とてつもないほどの劣等感を感じるのだと思う。しかも、常にその価値基準で図られるわけだから。

でも、世の中には、それ以外の価値基準が沢山ある。同じ勉強をとってしても、ゼロからイチを生み出すのが得意な人と、既にあるものを応用、発展させてゆくのが得意な人もいる。

勉強なんて、別にぶっちゃけできなくたって、頭が良い人は沢山いる。日本は大概、頭がいい=テストの点がいいで、捉えられがちだけど。本当の頭の良さなんて、そんなもんじゃ測りしれない。色々な頭の良さがある。

し、ぶっちゃけ、スポーツ、音楽、手先の器用さ、コミュニケーション能力。。。その人その人に、その人らしさ、良さが沢山ある。価値基準なんて、自分次第で構わない。

ちょっと、隣を見たり、違う世界を見たり、環境を変えられる社会であって欲しいなって思うのだ。今ある環境が自分に合ってるとは限らない。

貴方は貴方のままで、十分素晴らしいよ。そうやって、自己肯定感を持てるって、とっても大切だと思う。そして、自己肯定感があると、大それた考え、あ、あたし、出来るかも?と全く、根拠なく、やってしまったりするのだ。

この少年の闇は深く、そして切ない。

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